アーカイブ

慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その2-

承和五年(八三八)七月三日、丑の時(午前二時ころ)、潮が生じた。路を知る船が、前を先導して掘港庭(大運河の町)に赴いた。巳の時(午前一〇時ころ)、白潮口に到った。逆流がはげしくほとばしる。大唐の人が三人と日本から来た水手船頭たちが、船を曳き流れを横切り、岸に到って纜(ともづな)を結び、しばらく潮の生じるのを待つ。
続きを読む

六根清浄・子供篇

拝島大師の厄除け祈願や身体安全祈願、さらに学業成就受験合格祈願に行う護摩供の終わりのお加持は俗にお祓いとよばれますが、これに六根清浄(ろっこんしょうじょう)があります。
六根とは眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんに)で、人間などほ乳類の動物には眼、耳、鼻、口の中の舌、そして身体と意=心があります。感覚器官とよばれ、これを清浄にすることが六根清浄です。まず眼を清浄というのは目をきれいにして、目でよく見る、正しく見るのです。子供さんは、まず家庭でお父さん、お母さんのごはんの食べ方などさまざまな生活に必要なことを目でみて覚えます。
続きを読む

慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その1-

はじめに
慈覚大師円仁「入唐求法巡礼行記」は、その概略を本誌『如意輪』の「元三大師のお話し」で紹介したことがある。しかし、最近各方面から「入唐求法巡礼行記」が取り上げられ、その中には著しく事実を誤り、それが慈覚大師御自身のお気持ちを全く理解していない説明が行われていることを眼にするにつけ、それは大師讃仰とは全く逆、大師の壮挙の価値を無にする由々しき事態であると思い、慈覚大師円仁讃仰の気持ちから「入唐求法巡礼行記」研究というべきその詳細な紹介を企図した次第である。研究は二部構成でまず、第一部では「入唐求法巡礼行記」の忠実な現代語翻訳・訳註、第二部で慈覚大師円仁の仏教とその時代ということにしたい。大方の御批判を願うところである。
続きを読む

春の七草

「君がため春の野にいでて若菜つむ、我衣手に雪はふりつつ」『古今集』にもある若菜摘みは、野遊びと食べる楽しみを兼ねたもので、江戸時代には正月七日が五節供の一つと定められ、若菜節、七種の節供など言い、七種の菜を入れた七草粥を食べ、春の祝い、万病除けの願いとした。

seri

☆芹セリ セリ科。
田の畔でつんだ若葉を田芹、白いひげ根を根芹、水辺に群生するを水芹と言い、香りがよく、ひたしもの、あえもの、汁の実に使う。『万葉集』「ますらおと思へるものを大刀佩きてかにはの田居にせりぞ摘みける」、『源氏物語』「沢のせり、峯の蕨など、たてまつり」など、古くから香りの良さと食感の良さを愛され、民間療法では大腸・小腸を利し、黄疸を除き酒後の熱を去るなど薬用にもなる。

続きを読む

馬頭観音の話

先の漢字講座で馬を取り上げたので馬頭観音さんの話をしましょう。そもそも観音さんは、本誌『如意輪』本号冒頭の拝島大師新年の挨拶中で観音経中の「汝よ、観音の行の善く諸の方所に応ずるを聴け」という一句を引きましたが、三十三身に変じていろいろな場所、方角の多様な衆生の救済に姿を現わします。いつもは優しいお顔の観音さんが、時に怒髪天を突く忿怒像で現われます。馬頭観音、馬頭大士、馬頭明王などとも称されます。台密では正観音(聖観音)・十一面観音・千手観音・不空牽索観音・如意輪観音とともに六観音といわれます。拝島大師本堂外陣中央上の如意輪観音一尊と馬頭観音ら五尊の彫刻をよく御覧下さい。
続きを読む

【漢字講座】馬(うま)

本年の干支は午歳、うまどしですので動物の馬という漢字を説明します。干支の午は角が出れば牛だが、午には角が出ないと覚えてください。さて、漢字の馬という字はいかにも馬の形を現わしています。字形は馬の頭とその後に鬣(たてがみ)があり、大きなお尻があって、下に四足が駆けています。一体、馬は体巨大、四肢強健、鬣と蹄(ひずめ)とあり、人を乗せ物を運ぶに古来必要な獣です。野生の馬が家畜になったのは今から五〇〇〇年くらい前とされ、中国でも漢字が登場してきた殷時代(前一四〇〇から前一〇〇〇年ころ)にはすでに馬は中国人に知られていました。なお、日本人が馬を知ったのは相当に後れて四、五世紀のことです。日本語の「うま」は馬の漢字音の「ま」に接頭語「う」が冠したもので、「うめ(梅)」「うみ(海)」と同じです。「ま」は母音変化で「め」ともなります。罵るとき、奴め、此奴(こいつ)めとなります。また、高さ六尺(一・八〇メ-トル)を馬といい、古来諸侯の乗り物でした。馬八尺以上を龍といい、天子(王)の乗り物でした。五尺以上の小型は駒といいます。さて、インドでは馬は牛、獅子(ライオン)、象(ゾウ)とともに聖なる動物で四獣といいます。西アジアやエジプト、さらにギリシャ・ロ-マでは優れた馬は空に上り、時に翼が生えて天馬と呼び、これはインドにも紀元前に伝わりました。馬は乗馬に使われますが、何頭かの馬に引かせた馬の車を馬車と呼び、これも古今東西で古い歴史があります。特に戦車に使う馬車は古代オリエントでは一般的でしたが、古代インドや古代中国でも同様で、中国では殷から周時代、天子の馬車は六頭立て、諸侯は四頭ないし二頭立てと身分も高さの印となりました。孔子は弟子の顔回が死んだ時、その父親が孔子の馬車を貸してくれと頼んだが、貸さなかった話が有名です。孔子は自分の乗る馬車が無くなると体面が保てないというのです。周王朝の時代の各地の王侯の墓地から馬車が出土することが知られます。秦始皇帝の墓地からも銅馬車の模型が出土しました。
続きを読む

天然理心流新扁額奉納 一〇〇年ぶりの壮挙

拝島大師旧本堂に、天然理心流心武館初代館長井上才市氏が奉納した扁額がある。心武館はあきる野市二宮に開いた道場、扁額の維時は大正二年(一九一三)十一月二十三日とある。それを今回、初代館長井上家の姻戚に当たる大塚篤氏が心武館道場を再興、四代目館長として天然理心流の演武を拝島大師に奉納、それに続き門弟百数十名、心武館賛同者百有余名の墨黒々とした二代目扁額を初代と同じ規模規格で同じ十一月二十三日の佳辰(勤労感謝の日)に掲揚した。大塚氏は昭島消防署長を最後に消防畑を歩いてきたひと、心技信仰一体、天然理心流の奥技を極め、現在、茨木県牛久、都内新宿、当所昭島、関西京都の四道場を構え後進の育成と剣道の社会実践に努める篤信の人士である。四年前、拝島大師天然理心流奉納額の存在に注目、その次を挙げたいと志を抱いた。
続きを読む

古典会だより 拝島大師の環境 -多摩川-

拝島大師の南方約五〇〇メ-トルに多摩川が流れています。そもそも拝島大師の伽藍建物は多摩川の流れで形成された崖、というより「はけ」と呼ばれる土地に建っています。拝島という地名も、今から約五〇〇年前の戦国時代に多摩川の西南方の対岸の丘陵上にある滝山城から見た時に島に見えるからついたと言います。そこで多摩川について書きます。
続きを読む

妙法蓮華経・提婆達多品第十二(一) ~山主の仏典講座78~

法華経の説法は虚空会となり、釈迦如来はいよいよ法華経の神髄、核心に迫る説法を展開します。本号から提婆達多品第十二に入ります。
その時、仏は諸の菩薩と及び天・人と四衆とに告げられた。

「吾れ、無量劫の過去において、法華経を求めて倦怠したことは無かった。多劫の大昔に常に国王となり、願を発して、無常菩提を求めたのであるが、心は退転せず、菩薩行の六波羅蜜を満足しようと欲し、布施行を勤行して、心に象馬・七珍・国城・妻子・奴婢・僕従・頭目・髄脳・身肉・手足を惜しむことなく、自分の身体や生命を惜しまない。時に世の人民の寿命は無量であり、法のための故に、国位を捨てて、政治を太子に委せ、太鼓を撃って四方に宣言命令して法を求めた。『誰か能く、我に大乗の教えを説くものが居ないか。吾は当に身を終わるべきまで、供給し走り使いをするであろう』と。
続きを読む

拝島大師経蔵堂の建立構想

七堂伽藍という言葉があります。寺として具備すべき七種の堂宇のこと、普通は塔・金堂(本堂)・講堂・鐘楼・経蔵・僧房(庫裡)・食堂の七堂、天台宗では中堂・講堂・戒壇院・文殊楼・法華堂・常行堂・双輪?(多宝塔)の七堂塔、禅宗では法堂・仏殿・山門(三門)・僧堂(方丈)・庫裡(食堂)・西浄(東司)・浴室の七堂です。各建物の機能や目的から、いずれも寺院の仏教活動に必要不可欠な建物です。
続きを読む