慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その27-

○開成四年正月六日、相公節度使李徳裕の随軍沈弁が来たりていう、「相公の伝語では、今月初五日より、國のためならびに銭を得て、開元寺栴檀瑞像閣を修せんがために孝感寺に寄りて講経し募縁せしめんとす。乞うらくは本国(日本国)の和尚よ特に到り聴講し、兼ねて日本国の諸官らをして結縁し捨銭を催すものなり」と。

○正月七日、沈弁来たり、相公の語言を伝えていう、「州府の諸官は、明日をもって孝感寺に会集せしめ、特に日本国の和尚を招き、相共に来り講を看護せしめるものなり」と。兼ねて講経法師璠の募縁の文が有る。案ずるに彼の状に称う、「瑞像閣を修し、金剛経を講じ、乞うところの銭は五十貫。状は相公にわたりて招募を賜る。同縁同因のもの、孝感寺の講経に寄せて結縁をまつものなり」と。その状は別のごとし。沈弁が申していうに、「相公は一千貫を施し給い、この講は一月をもって期となす。毎日進み赴きて法を聴く人多数なり。計るに一万貫をもってこの閣を修することを得ん。波斯国ペルシャは千貫銭を出し、婆国人(闍婆ジャバ国ないし占婆チャンパ国)は200貫を喜捨した。今国衆は計るに少人数、よって五十貫を募金するものなり。」やや催すこと少なきを感じた。

【研究】
開成四年(839)正月六日、相公節度使李徳裕は開元寺栴檀瑞像閣を修すために孝感寺で講経し募縁し銭を集めて修理費用を工面しようとする。それには唐人だけでなく、円仁らの日本僧と遣唐使一行も出銭せしめんとした。本国とは日本国のことであるが、外国人は日本以外に波斯国ペルシャや婆国人(闍婆ジャバ国ないし占婆チャンパ国)も出銭し、しかも前者は千貫銭を出し、後者は200貫と日本国人の五十貫より遥かに多い。「今国衆は計るに少人数、よって五十貫を募金するものなり」と唐揚州在留人数の多少が喜捨金額の差となっているのが甚だ重要である。揚州がアジア諸国人が集まる国際都市であることがよく分かる。