古典会だより-春の七草 オギョウ ハハコグサ―

△母子草、ハハコグサ、ホウコグサ、オギョウとも呼ばれ、日当たりの良い道ばた、野原に自生するキク科の二年生草本。東アジアの温帯から熱帯に広く分布。高さ10~40㎝。秋に芽を出し、冬から早春に根生葉を出す。若葉は白い綿毛でおおわれ、やがてもとで分かれた茎が伸び、茎葉は互生し、線状へら形で縁はやや波状、先はまるみをおび、厚みがあって白い綿毛が密生し全緑色。

春から夏にかけて茎頂に黄色の小さな頭花が球状に多数集まって咲き、果実には黄白色の冠毛があります。漢名は鼠麹草ソキクソウ。葉を鼠の耳に、花を熟した麹コウジに見立ててできた名とか。和名のハハコグサは、全草に生える白い軟毛がほうけ立つことからホウコグサ、さらに転化してハハコグサ、あるいはコウジバナとも言われます。若い葉や茎は食用になり、餅に入れて草餅を作ります。

文徳実録』嘉祥3年(850)5月壬午に「田野に草有り。俗に母子草と名づく。二月に始めて生う。茎葉は白くもろい。三月三日属するごとに婦女これを採る」とあり、母子草の若葉をつきまぜた餅は母子餅ハハコモチと言い、三月三日につく風習があったとか。

和泉式部集』上
○花の里心も知らず春の野にいろいろ摘めるははこもちゐぞ

曽丹集』に、
○ははこ摘むやよひの月になりぬればひらけぬらしも我が宿の桃

葉は『本草書』に「寒嗽カンソウ(空咳)および痰を治す」とあり、去痰薬、止咳薬として煎じ服用して有効とか。

本草和名』に「馬先蒿・・・和名波々古久佐」
○風あれど日のぬくければ御形オギョウ摘む 夫佐恵
○御形オギョウ摘む田の面かすめて風きたる 茂子

万葉集』巻八、山上億良の「萩ハギの花、尾花オバナ、葛花クズバナ、瞿麦ナデシコの花、女郎花オミナエシ、また藤袴フジバカマ朝貌アサガオの花」「秋の野に咲きたる花を指オヨビ折りかき数ふれば七種ナナクサの花」とあるように秋の七草は奈良時代から言われており、姿、形の特長だけでなく、器具、材料としての有用性に加えて、それぞれ薬用効果ありのものでした。一方、春の七草は中世、鎌倉から室町時代になってようやく特定されるようになりました。

山家集』に、「うづゑつきななくさにこそおいにけれ年を重ねて摘める若菜に」とあり、『ささめごと』に、「七草などは、二葉三葉、雪間ユキマより求めえたるさまこそ艶に侍るに」とあります。

運歩色葉』に、「七草、芹セリ薺ナズナ、五行ゴギョウ、田平子タビラコ仏の座ホトケノザ、須々子スズコ、蕙スズシロなり。正月七日これを用ふ」とあり、『康富記』文安5年(1448)に、「正月六日、山城国大住隼人司領より公事物七種菜」とあります。『拾芥抄』(中世公卿の備忘録的著書、歳時、文学、風俗、諸芸、官位、国郡、神祇、仏事等略述)飲食部に、「七種菜、薺ナズナ、蘩婁ハコベ、芹セリ、菁アオナ、御形オギョウ、須須之呂スズシロ、仏座ホトケノザ」。

枕草子』正月「七日、雪まの若菜つみ、あをやかに、例はさしもさるもの目近かからぬ所に、もてさわぎたるこそをかしけれ」「七日の日の若菜を、六日、人の持て来、さわぎとり散らしなどするに」とあるように、若菜を摘んであつものにして食べましたが、野遊びと食べる楽しみを兼ねたものでした。

正月七日はいまだ寒い中、青菜を採り、あつものや粥にして食べ、春の祝い、福寿の願いとしました。。江戸時代には五節供の一つと定められ、若菜節、七種(ナナクサ)の祝、七種の節供などと呼び、当日は将軍以下七草粥を食べ、諸侯は登城して祝儀を言上しました。民間では当日の朝七草粥を食べ、六日の夜からは七種ばやしと言い、小桶の上にまな板を置き、若菜をたたいてはやしました。七草粥の習俗は今も広く行われ温室作りの七草が賑やかに揃っています。

七草は「セリ、ナズナ、オギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロこれぞ七草」と定まりました。
人が生きて行く上で必要な生活の基礎となる条件衣 食 住のうち、最も生命にかかわるのは食でしょう。

○薺粥箸にかからぬ緑かな 蝶衣
○さざんくわは名残の花や七日粥 水巴
○七種や今を昔の粥の味 鴻村
○薺粥椀のうつり香よかりけり 風呂
○七草のそろひし籠のめでたさよ 風木

春夏秋冬、四季の変化に恵まれた日本は、季節毎の節目を大切にしてきました。青龍の春、朱雀の夏、白虎の秋、玄武の冬、それぞれの移動の大切な時期が土用です。玄武の黒を紫に代えての五色の幕は、季節の順当なめぐりと無事への願いです。

医食同源、「時短」などのおぞましい語は言語道断、せいぜい御馳走を食べて、元気が一番です。