釈迦如来、お釈迦さまの話-その13-

釈迦入滅と舎利信仰・塔建設のはじまり 釈尊は釈迦国の首都カピラ城から南方マガダ国との中間にあるクシナ―ラ―という地方都市で80歳の生涯を閉じました。遺体は荼毘に付されて、その舎利は生前に釈尊と関係の深かった諸国の国王や種族の間で8等分され、各地で舎利塔(ストゥ―パ)を建ててまつることが起こりました。ピプラワ―で発見された舎利もその一つです。釈尊入滅より200年後のインド最初の統一帝国マウリア王朝のアショカ王は、7カ所の仏舎利を、インド各地の8万4000の塔にまつったとされます。それにより古代仏教の飛躍的発展があったのです。釈尊を慕う人びとは、この舎利崇拝のほかに歯牙、遺髪も納めこれを塔に納めました。塔とはインド語のストゥ―パ、漢字で卒塔婆、略して塔婆ですが、本来は仏教開祖釈尊の遺骨(舎利)や遺髪を納めた釈迦礼拝施設です。紀元2世紀、西北インドのクシャナ朝カニシカ王の大塔が東アジアに伝わり、中国の後漢時代の190年ころ、浮図祠と呼び、中央に1基の高塔が聳え廻りを回廊が囲みました、高塔の頂きには青銅製の相輪が乗り、一層には仏像を祀りました。やがて南北朝時代には相輪は露盤・伏鉢・・・と形式が整い、やがて5世紀の北魏雲崗石窟には五重塔・七重塔が描かれています。この塔が朝鮮百済国を経て6世紀に日本の飛鳥時代に将来され、その現存最古の塔は6世紀初頭の法隆寺五重塔です。さらに7世紀の白鳳文化の時代は薬師寺三重塔など、五重・三重塔が各地に立ち、8世紀には東大寺・諸国国分寺に七重塔が建立され、日本の塔の時代となりました。拝島大師五重塔は武蔵国多摩の地としては久しぶりの塔の建立です。