【漢字講座】第32 菊(きく)

秋の花は何と言っても菊です。今回は菊という漢字を考えてみます。
菊は草本ですので草冠が付きます。その下に真ん中に米の字を包むように大きな丸い花が見えます。いかにも菊らしい漢字です。ちなみに漢字の音が同じの麹という字は米に花が咲いたように見える漢字ですが、麦偏だから麦麹です。
さて、菊は音が「きく」、訓すなわち日本語の菊花の呼び方も「きく」です。これは菊は中国から伝来したことを示しています。ただ、ここでお断りしたいのは、野菊と呼ばれる日本全国至るところに咲く野生の菊は恐らくは日本列島始まって以来生えていた菊で、名もない菊だったのでしょう。その形、姿は似ていてもはるかに大型の家菊は中国からかなり古くに入ってきたようです。中国では50万年から100万年前の家菊の化石が発見されています。周代の古典には菊の漢字が見えます。ただ、甲骨文字に菊があるか否かは不明で、篆書(小篆)が最古という説もあります。中国では菊は不老長寿の霊的な薬草として尊ばれ、それが日本に伝わって、日本でも最初は鑑賞用ではなく薬草でした。中国の薬草名はそのまま日本語になることが多く、菊も日本語は中国語のままキクです。『万葉集』に菊を歌ったものは一つもないところを見ると、奈良時代には菊は観賞用にはならなかったようです。
陰暦九月九日は重陽節句で日本でも平安時代以降、五節句の一となり、菊花の宴、菊宴とも呼ばれ観菊が行われました。それも初めは単に菊の花を観賞するだけでなく、不老長寿の花たる菊の効能を身に受けようという企てです。ただ、江戸時代には大きな花の大輪の菊が大きさを競ったり、菊の花が長い茎の先に咲く菊の特性を生かして小輪種の菊を懸崖作りにしたり、枯木・古木作りにしたり、また人形仕立ての菊人形を作って公園に飾ったりして、人びとの楽しい娯楽にもなりました。
中国南北朝時代の東晋陶淵明の「飲酒詩」には、
○庵を結んで人境に在り しかも車馬の喧(かしま)しき無し 君に問ふ何ぞ能く爾(しか)ると 心遠ければ地おのづから偏なり 菊を采る東籬(とうり)の下 悠然として南山を見る 山気日夕に佳なり 飛鳥あい与に還る この中に真意有り 弁ぜんと欲して 已に言を忘る
東籬とは家の東の垣根、そこに菊を植えていたのです。中国では菊院という菊の垣根を意味する言葉もあります。
因みに中国では皇帝の色である黄色の菊、黄菊が尊ばれましたが、日本では白菊が尊ばれました。菊はすべて高貴なる花として尊ばれ、仏様、神様にも供えます。平安時代以降は装束や調度の紋様として非常に多く用いられました。平安時代末の院政期に、武家が平家の揚羽の蝶、源氏の笹リンドウのように家紋を作って争ったのに倣い、鎌倉時代初めの後鳥羽上皇は菊が好きでしたので、菊の紋章を皇室の家紋としたとされます。ただ当時は菊の紋章は皇室の独占物ではなく、菊の紋章を下賜したこともあります。鎌倉時代末から南北朝時代の楠木正成は菊の下に三筋の流水を入れた菊の紋章を用いたほか、貴族や大名に菊紋章を用いることが多かったのです。近代になると、明治四年(1971)、政府は16弁の菊の紋章を皇室の紋章と定め、他の使用を法律で禁じました。