古典会だより-春の七草・詳解・芹(せり)-

tsubaki『枕草子』正月に。
○七日、雪まの若菜つみ、あをやかに、例はさしもさるもの目近かからぬ所に、もてさわぎたるこそをかしけれ
○七日の日の若菜を、六日、人の持て来、さわぎとり散らしなどするに
とあるように、正月七日の若菜つみは、野遊びと食べる楽しみを兼ねたもので、五節供の一つとされ、七日に七草つまり七種類の菜を粥にして食べ、春の祝い、福寿の願いとしました。ただし、明治時代以前は旧暦ですから、今の暦とではほぼ一カ月遅れの期日です。
△七草の名が特定し始めは室町時代ころからで、一条兼良の『年中行事秘抄』や『拾芥抄』などに書かれ、江戸時代には七草の節句で、「セリ、ナズナ、オギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロこれぞ七草」と定まりました。

△芹セリ、セリ科の多年草。ツミマシグサ、ネジログサとも。田の畦、小川、湿地に自生。泥の中に匍匐枝が延び、節から白いヒゲ根を出して殖えます。葉は羽状複葉、小葉は卵形で鋸歯が有り、葉柄は上ほど短い。夏、花茎が伸び、白色の小花を複数形花序につける。花の後は、2ミリほどの楕円形の実ができ、冬から春にかけ、若葉をつんで食用にします。全草に良い香りがあり、田の畦でつんだ若葉を田芹、水辺に群生するを水芹、山に生えるを山芹、土中の白い根を根芹と呼んで賞味します。

『日本書紀』天智天皇十年十二月の天皇崩御の際の童謡に、
○み吉野の、吉野の鮎、鮎こそは、島傍も良き、え苦しえ、水葱の下、芹の下、吾は苦しえ
と歌われました。
『出雲国風土記』では山野の産物として山セリ、野セリが挙げられ、『延喜式』典薬寮には諸国から貢進させた薬種の品目、量目が記載され、薬草として山セリは美作国、上野国、石見国、武蔵国などが多く、同じく野セリは、大和国、尾張国、丹波国、備前国、近江国から多く出されています。

『万葉集』巻二十、天平元年(729)、班田の時の使葛城王の、山背国より薛妙観命婦等の所に贈る歌一首は、芹子の裏に副へたりと注記がつき、
○あかねさす昼は田賜びてねばたまの夜の暇に摘める芹子これ
「明るい昼間は班田の長官の仕事があるので暗い夜になってから、暇をぬって貴女の為にセリを摘みましたよ」
○ますらをと思へるものをたち佩きてかにはの田居に芹子を摘みける
「立派なお役人としてお仕事をなさってると思っておりましたら、太刀を腰にはきながら、蟹のように這いつくばって、蟹幡の田んぼでセリを摘んで下さってまあ」
とあります。葛城王は聖武天皇の皇后光明子の兄、橘姓を賜わり橘諸兄として、後に左大臣まで昇りつめました。『続日本紀』天平元年十一月に、「京及び畿内の班田の司に任ず」以下の記録があり、それと相俟って、この歌には「田賜びて」、班田の表現の具体的実像や、大化改新の「公地公民制」「班田収授の法」という日本史の事実の一端が歌われ、書き残されていることになります。

再び『枕草子』には、
○二月二十日ばかりのうらうらとのどかに照りたるに、渡殿の西の廂にて、上の御笛吹かせ給う。・・・いとめでたし。御簾のもとに集まり出でて、見たてまつるをりは、「芹摘みし」などおぼゆる事こそなけれ
とあり、高貴の女性が芹を食べるのをかいま見て、恋慕の情を起こし、芹を摘んで供えたが思いがかなえられなかったという平安時代の慣用的歌語もあり、『更級日記』晩年の、
○いくちたび水の田芹を摘みしかば思ひしことのつゆもかなはぬ
や、西行の『山家集』に、
○なにとなく芹と聞くこそあはれなれ、摘みけん人の心知られて
に連なります。

『梁塵秘抄』では、
○聖の好むもの、比良の山をこそ尋ぬなれ、弟子遣りて、松茸平茸滑薄、さては池に宿る蓮の蔤ハイ、根芹根蓴菜、牛蒡河骨独活蕨土筆
○凄き山伏の好むものは、味気無凍てたる山の芋、山葵、粿米水雫、沢には根芹とか

○芹焼くやすそ輪の田井の初氷 芭蕉
○これきりにみち尽きたり芹の中 蕪村
○古寺やほうろく捨る芹の中 蕪村
これは田舎の風景でしょう。

seri△芹は香り高く食感の良さを愛され、古くから食用とされ、ひたしもの、あえもの、汁の実に使われました。芹と小松菜の胡麻かけおひたし、白あえ、芹の卵とじ、茶わん蒸しなどの料理があります。
△一方、芹は民間療法でも、「大腸・小腸を利し、黄症を除き、酒後の熱を去る」「咳に芹を刻み味噌汁にて煮て食す」など薬用に用いられ、食用、薬用、実に有用です。

dokuzeri
●御注意 セリ科にドクゼリがあり、若葉が似ているので誤食に注意。野山の物は疑わしきは採らずでしょう。