慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その43-

○四月三日、第一船が昨夜処分した状に、長岑判官ら五船の船頭をして署名せしめた。第二船は史生の名を署名させた。余の四船は署名に連ならなかった。新羅人通訳金正南の書を得たが、それに称す「第二、三、五、七、九らの船①はここより東海を渡らんとす。よろしく移りて、第六、八船に乗るべし」と。
○四月四日、卯の時(午前六時ころ)、請益僧円仁及び惟正・惟暁・丁雄満②らは相公李徳裕に相随って山東の密州に往き留住せんがため、第二船を下り、遷りて第八船に駕った。西風は変わらず、第八船頭伴宿禰③は相公に報じて処分を請うた。相公の判を蒙り、よろしく僧らの情願を聴いてくれと。第二船頭長岑宿禰は相公の船に至りて重ねて渡海のことを申し上げた。その意はなお先議に依らんとするにある。相公が宣して言うには「夜、風色をもて、風向き変わらざれば、明日の早朝ここより海を渡る。もし風向きが変われば密州の境に向かおう」と。
○四月五日、平明(午前四時ころ)に至るも信風改まらず。第一船が牒していえらく「第一・四・六・八などの船は、船の調度を換え作らんがため、先に密州の界に往き、船を修理して彼より海をよぎらんとす。いま信風吹く。よりて弱きをたすけもろきを補い、ここより海をよぎらんとす。諸船に転じ報ずるものなり」と。請益僧は先ごろ楚州にありて新羅訳語の金正南とともに謀るらく、密州の界に到らば人家に留住し、朝貢船が出港すれば隠れて山裏に居り、すなわち天台に向かい、かねて長安に往かんとす。節下はこの謀に逆いたまわず。今、諸船はここより海をよぎり、節下が密州の界に往かんとするの議に従わず、加うるに信風は連日変わらざるをもって、ゆえに第一船もただここより海を過ぎるの説に従い、解纜して発たんとす。よりて求得せしところの法門一籠、両部の曼荼羅と檀様など④を皮の大箱一合にもりて第八船頭の伴宿禰に寄託し、かねて随身のものをも付す。請益僧円仁と惟正・惟暁、・丁雄満②らは船を下りて岸上に留まった。節下すなわち遣唐大使は金二十六両を賜った。諸人も別れに臨んでこころ悲しみが増した。辰の時(午前八時ころ)に至るころ、九隻の船は帆を上げて出航し、風にまかせ東北を指して直行した。岸に登って望見すれば白帆は綿綿として行き海上にある。僧ら四人は山岸に留住す。朝の斎食をなす時に水をたずねて深い谷に入った。久しからずの間、多人数の声を聞くことがある。驚き怪しんで望見するに一船があって、船を止むる処に到った。十有余人が碇を下ろして停泊している。船の人が来て円仁らになぜここに居るか尋ねた。円仁らは「僧らはもとこれ新羅の人。先ごろ楚州に住す。密州に往きて相議するの由あるがためにしばらく朝貢使の船に乗り、したがいて相来りぬ。朝貢使の船は、今日海を過ぎる。ゆえに船を下りてここに留っている」と。船人ら言う「われら密州より来り、船には木炭を積み楚州に向かう。われらはもと新羅の人、人数十数名。和尚らは今、この深山に在りて、たえて人家なし。また当今、船の密州にゆくものなし。夜もここに留住するや、あるいは村里を尋ねて進んで行くのか。もしここにしばらく居るのであったら、風雨の時にどこの隠れるのか」と。円仁らは人家離れた山中で金銭欲しさに殺害されるのを畏れ、村里を探して進むと答えたところ、船の人は一人を道案内に付け送り、「ここより南行して一山を越えれば二十余里、約十キロメートルで村里へ出る」と教えてくれた。言われた通り進んで行くと、宿城村とう新羅人が多く住む土地に着いた。

【語句説明】
①第二、三、五、七、九らの船・・・前の開成四年三月廿二日条に九隻の船が遣唐使一行の帰国渡海のために楚州で準備されたとある。その過半の五隻が就航準備に入った。②請益僧円仁及び惟正・惟暁・丁雄満・・・惟正・惟暁は円仁が入唐の後に得度出家した弟子、以後円仁の入唐に随行する。丁雄満は新羅人水手で従者。③第八船頭伴宿禰・・・伴須賀雄。奈良時代の万葉歌人大伴旅人やその子の家持らも宿禰であった。ただ、平安時代には大伴氏は伴氏と大が抜けた。伴大納言絵詞で有名な伴善男も然り。④法門一籠、両部の曼荼羅と檀様など・・・「在唐送進録」には、大乗経律論・梵漢字真言儀軌讃・章疏・伝記・曼荼羅並伝法和尚等影及外書等 総一百二十七部一百四十二巻がある。

【研究】
唐の開成四年(839)四月三日から同五日の連日の記事。請益僧円仁及び惟正・惟暁・丁雄満の四名は、山東半島南方の淮河流域で遣唐使船団と別れて唐での求法の旅を続けるが、山東地方の新羅人居住地域に入った。当時相当数の新羅人が中国北部の沿海地方で生活していたが、それは新羅国での生活が困窮化した人が多かったためである。