古典会だより-衆人愛敬しゅうにんあいぎょう寿福増長じゅふくぞうちょう-

延喜5年(905)撰集の『古今和歌集』仮名序に「やまとうた(和歌)は、人の心をたね(種)として、よろづのことの葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものにつけて、言ひいだせるなり。・・・ちから力をも入れずして、あめつち天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、あはれと思はせ、おとこ女の仲をもやはら和げ、たけき猛もののふ武士の心をも、慰むるは歌なり」と歌の真意を述べています。能楽の大成者世阿弥(1363~1443)は『風姿花伝』でこう述べています。「それ申楽さるがく延年えんねんのことわざ、その源を尋ぬるに、或いは仏在所より起こり、或いは神代より伝はる・・・聖徳太子秦河勝はたのかわかつに仰せて、且つは天下安全のため且つは諸人快楽のため・・・申楽と号せしよりこのかた、・・・この芸をあい続ぎて、・・・神事に従ふ」と。
須達長者すだつちょうじゃの建てた祇園精舎供養の時、笛、鼓、物真似で妨害者共を鎮め、仏が説法できたこと、神代に天照大神が天岩戸に籠られた時、天鈿女が神楽を舞奏して天下平安となった吉例から、聖徳太子秦河勝に勤めさせたところ、天下安穏となったので、神楽の字を分けて、楽しみを申す「申楽」と名づけた。その後、村上天皇(946~967)の御宇以来「狂言綺語(飾りたてたいつわりの語)をもって、讃仏乗転法輪の因縁を守り(かえって仏法への導きの契機とする)魔縁を退け、福祐を招く「申楽舞を奏すれば、国穏やかに,民静かに、寿命長遠なり」とされ、申楽延年(寿命長久を願う申楽能)は、厄災をも退転させ、平安と喜こびや楽しみを願う、人々の祈りの心を根源としているが故に、神事として勤められて来ました。単なる娯楽の演劇ではないというのです。さらに「そもそも芸能とは、諸人の心を和げて、上下の感をなさむ事、寿福増長のもとい基、かれい遐齢(長寿)延年の法なるべし。きわめ極めては諸道悉く寿福延長たらんとなり」と言います。

ところで世阿弥は「この芸とは、衆人愛敬(大勢の人に愛され尊重される)をもて、一座建立の寿福とせり」と続けます。
この「衆人愛敬」という言葉は「御伽草子」の語の中にも出て来ますが、当時も。恐らくは最も人々に親しまれていた『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(『観音経』の中にあります。「もし女人ありて、たとい男子を求めんと欲して、観世音菩薩を礼拝し供養せば、すなはち福徳智慧の男子を生まん。たとい女子を求めんと欲せば、すなわち端正有相の女子の宿むかし徳本を植えて衆人に愛敬せらるるを生まん」とあります。観世音とは、衆生が諸々の苦悩を受けた時、一心に御名を称えれば皆解脱するが故の名であること、淫欲、瞋恚しんい(いきどおり)、愚痴から離れられることの次に述べられ、観世音菩薩の名号を受持し、礼拝、供養すれば、功徳甚大、無量無辺の福徳の利を得ること、この観世音菩薩は衆生の願いそれぞれに応じて変身し、説法し度脱せしむるので、一心に供養すべきと結ばれ、くり返しくり返し礼拝し、恭敬し、供養することが功徳となり、苦難からのがれ、願いがかなえられると述べています。

平清盛(1118~1181)は平家一門と共に、豪華絢爛たる『法華経』の納経をしましたが、その願文で観世音菩薩の化現たる伊都伎嶋大明神に「つらつら思んみるに、諸法の定不定は、唯一心の信不信に在るものか(よきょく考えてみると、物事が成就するかどうかは、ただ一心の信の如何によると言えましょうか)」と敬白しています、信じて祈る心の功徳が、人々の願いを成就させると言います。祈りを重ねた結果が、諸願の成就となり、衆人愛敬・寿福増長です。大勢の人々に愛され、喜ばれ、尊重される、衆人愛敬がすなわち人々に楽しみ、そしてしあわせ幸福を与える寿福増長となり、そのことがまた衆人愛敬へと連関して行きます。「極めきわめては諸道ことごとく寿福増長ならんとなり」は「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、あはれと思はせ、おとこ女の中をも和げ、猛き武士の心をも、慰むるは歌なり」に連なるものでしょう。
四季の移り変わりに恵まれた日本の四月、五月は、梅ウメに代って桃モモ、桜サクラ、椿ツバキ、杏アンズ、花梨カリン、蜆花シジミバナ、雪柳ユキヤナギ、連翹レンギョウ、山吹ヤマブキ、藤フジ、素馨ソケイ、躑躅ツツジ、皐サツキと目白押し。ハコベ、タンポポ、セリ、ミツバ、フキ、ツクシ、ヨモギ、山椒の芽。めぐり来て再び会えて、食べられて、食は生命の根元。季節の味は、万人の喜びでしょう。椿餅、桜餅、草餅、草だんご、柏餅。少し頑張って筍御飯は如何でしょう。