慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その34-

○二月八日、長判官の閏正月十三日の書札を得たるにいう、(遣唐)大使①が天子(唐皇帝)に対し見ゆる日、殊に重ねて面陳(陳状)すれど、また許しを蒙らず。よりて深く憂悵(恨)するものなりと。
○二月十四・十五日・十六日、この三か日、これ寒食の日②、この三日天下煙りを出さず。すべて寒食を食らう。
○二月十七日、十八日、楚州(淮安)に向わんがために、官私の雑物など、すべて船裏(内)に載す。
○二月十八日、斎の後、請益・留学僧ら開元寺を出で、平橋館にとどまり船を候つ。諸官人未だ船に駕(乗)らず。
○二月十九日、早朝、諸官人は州に入りて相公に拝し別る。申時(午後四時ころ)、船に駕す。人物を載す船、すべて十か隻。平橋館の東に駐留せり。
○二月二十日、公事未だ備足せずに縁って進発するを得ず。午時(正午十二時)、先に入京したる遣唐使内監国信③の春道宿禰永蔵・雑使山代吉永、射手の上教継、長嶺判官傔従(従者)白鳥・村・清嶺など十余人、一船に乗り来る。すなわち聞く、遣唐大使ら、今月十二日をもって、楚州に到りとどまる。上都(洛陽)にて売り買いするを得ざるに縁り、すなわち前件の人らを差して雑物を買わしめ来る。また聞く,遣唐大使以下すべて病に臥し、辛苦極まり無し。病は後に漸く可なり。第二舶判官藤原豊並は路間に病に臥し、辛苦に任えず、死去せらる。自外の諸人は並びに皆平善たり。真言請益円行法師は(長安)青龍寺④に入る。但し二十日に二十の書手を雇い、文疏らを写すのみ。法相請益法師は入京を得ず。更に弟僧の義澄をして冠を着けしめ、判官の傔従と成して入京せしむ。勾当軍将王友真あい随い楚州に向いゆく。永蔵らの売るを許さず。すなわち鼓を打ち発ちゆく。監国信は大使の宣を伝えて云うに、請益僧(円仁)の発ちて台州に赴くの事、遣唐大使の京に到るに、三、四度奏請せしも、遂に許しを被らず。第四舶射手一人、水手二人が、唐人を強く凌ぐに縁り、先の日捉縛せられて州にひきいれられ、枷を着けられ、未だ免を被らず。未の時(午後二時ころ)、揚州東郊外の水門を出ず。久しからざるの間、第四舶監国信並びに通事、勅断色⑤すなわち唐皇帝の勅命により売買禁止品を買いたるに縁り、相公は人を交して来喚せしめ、遣唐大使に随いて州に入り行かしむ。諸船は禅智寺の東辺に到り停住す。すなわち寺に入り巡礼す。晩際、第四舶の通事・知乗ら免されて、趁り来る。長嶺判官傔従白鳥・清嶺・長嶺と留学ら四人は、香薬を買うがために、船を下り、市に到る。所由の勘追のために、二百余貫を捨てて逃走せり。但し三人のみ来る。

【語句説明】
①大使・・・遣唐大使。ここで大使が唐皇帝に面会し円仁らの天台山旅行を申請したが許可にならなっかというのは、以下の二十日の条にも出てくるので、錯乱があるとされる。②寒食の日・・・中国で冬至の後の百五日は風雨が烈しく食事煮炊きが火事になる危険があるとして、火を禁じて冷食した古俗。③監国信・・・日本天皇が中国皇帝に贈呈する品物を国信といい、これを監理する職。④青龍寺・・・真言宗祖弘法大師空海が長安滞在中恵果阿闍梨から密教を伝法された寺。円仁も訪問して求法巡礼している。⑤勅断色・・・すなわち唐皇帝の勅命により売買禁止品であるが、規定では諸の錦・綾・羅・縠・繍・織成・紬・絹・絲(生糸)・犛牛尾・真珠・金鉄。これを諸蕃と売買してはならぬという。但し例外規定もあった。

【研究】
唐の開成4年(839)2月8日、唐側が円仁の天台山行きを許可しないという情報が入ってきた。2月14・15・16の三日間は寒食の日、すべて寒食を食らう。終わって翌17・18日、揚州を出発する準備にかかった。18日には朝食後、請益・留学僧ら開元寺を出で、平橋館にとどまり船を待った。遣唐使の諸官人は未だ船には乗らない。19日早朝、諸官人は揚州役所で相公李徳裕に拝し別れを告げた。申時(午後四時ころ)、船に乗り、人物を載す船は全部で十か隻。平橋館の東に駐留した。
20日、役所の手続きが終了しないので出発はできない。午時(正午十二時)、先に入京した遣唐使内監国信の春道宿禰永蔵・雑使山代吉永、射手の上教継、長嶺判官傔従(従者)白鳥・清嶺など十余人が一船に乗って来た。そこで聞いた。遣唐大使は唐皇帝に面会し、請益僧円仁の天台山行きを申請したが許可にならなかったと。