慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その4-

承和五年(八三八)七月二十日、卯の時の終わり、午前七時ころに赤岸村に着いた。土地の人に質問してみると、ここから一二〇里、一二キロメ-トルに如皐鎮①があると答えた。しばらく行くと堰が有り、たて壕を開削してあった。船便のためである。船に乗って堰を進発すると、如皐院がある。小野勝年氏は如皐塩巡院②と推測する。

 唐の地方行政では淮南道揚州の区域で円仁入唐時代には淮南節度使李徳裕の支配領域であって、節度使は大運河の江北の要地である揚州に治所を置いた。如皐鎮には節度使配下の鎮将が所在したが、如皐院、塩巡院主任がいかなる知官か詳細な来歴は不明だと円仁はいう。船の進行は極めて遅い。そこで船を牽引する水牛を停止して、さらに三船連結に編成し直し、もって一番とした。後に数番が続くのである。番ごとに水手七人に分け、船を曳航させて行った。しばらく行くと人びとは疲れ、さらに水牛を繋げることを増加させ、長く繋げて曳航させた。左右はどこか見当も付かない、疲れている上に疲れが増した。多くの人が曳航困難になり、牛を繋げてはやく往こうとする。ここで人びとが言うには、一牛の力は人間百人の力に当たると。やや午の時(正午)のころに至り、水路北岸に、楊柳が相い連なる。未の時(午後十四時ころ)、如皐茶店に着いた。唐では喫茶の風が流行し、各地に旅人相手の茶店ができた。水が飲めない中国のこと、茶は実に有り難い。もはや茶は薬ではない。大衆的飲料である。しばらく停止して休憩をとった。運河の堀割北岸に店家が相い連なる。射手丈部貞名らが、遣唐大使の所在を知らせに来た。彼らの言によると、ここから半里も行くと、西側の頭に鎮家がある。大使や判官らはここに居ると。未だ海陵県治には来ていない。大使や判官らは唐朝廷への日本国からの信物(献上物)をもたらしたと聞(上申)した。さらに揚州の役所に向かわせ、船舶を装備準備させたという。また別の情報では、揚州から来た役人が食糧を支給してきたという。制度では新羅国使と日本遣唐使の食糧支給額は同一が決まりだ。だが今年の唐側の外国朝貢の取り扱いをする役人は、日本遣唐使分は新羅国使分と比較すると粗略がある。新羅使に手厚い。現在、日本遣唐大使らは先に鎮家に来て、新羅使との較差を確認した。海陵県知事や揚州刺史(知事)は朝廷に日本遣唐使の食糧額引き上げを上奏したという。それを聞くと喜びのあまり、疲れの情を慰めることになった。

申の時(午後十六時)、如皐鎮大使劉勉が馬に乗り、船着場に来た。馬子と従者の七、八人、遣唐使到着を確認して帰っていった。遣唐使事務官の録事らが船を下りて鎮大使のところに至った。円仁らは日が暮れたので、ここで停泊することにして宿を取った。
翌、二十一日の卯の時(午前六時)、鎮大使以下が一緒に出発した。水路の左右に富貴の家があい連なり、隙間がない。東南地方の両淮塩の製造や流通を業として産をなした者の屋敷である。しばらく行くことほどなく、人家がようやく疎らになった。これから先が鎮将の陣地の四囲である。鎮大使はあい送ること三、四里ばかり、本鎮に帰って行った。

如皐鎮から海陵県に向かい、二四〇里、二四キロメ-トルも距離がある。巳の時(午前一〇時)、水牛を開放した。船団を解き一船ごとにし、棹を指して進んだ。絶えて人家が見えない。申の終(午後一七時)延海郷延海村で停泊した。蚊?甚だ多く、辛苦極りなく、半夜出行した。塩の官船は塩を積み、或いは三、四船、或いは四、五船。双結して続編、数十里絶えず、あい随い行く。見た物は記述し難く、甚だ大奇である。

【語句説明】①如皐鎮・・現在の通州市如皐県城。唐末では如皐鎮の鎮将の部署があった。②如皐院、すなわち如皐鎮塩巡院はこの地の両淮塩の生産と流通を管理する役所で通常は国庫収入になったが、この唐末藩鎮跋扈の時期では両淮節度使の私的な収入となった。ただ、節度使は道以下、郷・鎮・村と末端までそれぞれ配下の武将をはりつけた。

【研究】 本節の記事には遣唐使が日本からの朝貢使節ではないという極めて重要な指摘がある。「遣唐大使や判官らは唐朝廷への日本国からの信物(献上物)をもたらしたと聞(上申)した」とあり、遣唐使は唐朝廷へ信物を持参したのであって、貢物を献上するのでないことが明白である。さらに唐側の遣唐使に対する処遇について、制度では新羅国使と日本遣唐使の食糧支給額は同一が決まり」であるが今年の唐側の遣唐使を扱う朝貢担当者の役人は新羅と日本に較差を付けたので、その是正が揚州刺史らによって上申した。唐の冊封体制に入らない日本は唐王朝に朝貢義務を負わないが、遣唐使の処遇は厚いという。  以下次号