慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その13-

○十月三日、晩がた請益・留学の両僧は、平橋館①に往く。大使・判官らの入京のために別(わかれ)を作した。長判官、すなわち長岑高名判官にあい諮って云うに、「両僧の情願の状を得て、将に京都(長安)に到って、聞奏し、早く符を得せしむる者なり」と。符とは円仁らが天台山に旅行する許可である。

○十月四日、朝の斎食後、両僧おのおの別紙に、情願の状を造り、判官の所へ贈った。その状は別のようである。入京の官人は、大使一人、長岑判官、菅原判官、高岳録事、大神録事、大宅通事、別請益生②伴須賀雄、真言請益円行など雑職以下卅五人。官船五艘である。また長岑高名判官は延暦年中の入唐副使の位記ならびに祭文③、および綿十屯④を寄せられた。判官の状にいうに「延暦年中の入唐副使石川朝臣道益⑤は明州にて身罷りぬ。今や勅ありて四品の位に叙せらる。この使に付して送って彼の墓前に贈賜したまう。須く台州の路次に問うべし。もし明州の境に到らばすなわち祭文を読み、火をもって位記の文を焼くべし⑥」と、三論留学僧の常曉はなお揚州広陵館に滞在して入京はしないと。
○十月五日、卯の終り(午前七時ごろ)、大使ら船に乗り、京都長安に発赴せり。終日通夜雨下る。
○十月六日、始めて寒し。
○七日、薄氷有り。

【語句説明】
①平橋館・・・平橋をライシャワ―氏は太平橋とする。これは沈括『補筆談』では揚州二十四橋の一であり、明清期にも確認される。
②別請益生・・・原抄本には「別請基生」と作る。小野勝年氏が意をもって別請益生に改めたというのに従う。特殊技術の持ち主で特に入唐が許可された者である。小野氏によれば伴須賀雄は囲碁の名手で唐人と長安で対局したという。
③祭文・・・ここでは死者を追悼する葬祭の惜別之哀文である。
④綿十屯・・・綿は真綿、日本古代の「延喜式」では四両を一屯とするが、養老令では綿二斤を一屯とする。これでは約一㎏となる。唐制度では六両を一屯とした。
⑤入唐副使石川朝臣道益・・・延暦年中の入唐副使石川朝臣道益は『続日本後紀』仁明天皇承和三年五月の条に石川道益に四位を贈位したことが見える。円仁らが入唐する直前に叙任が行われ、承和の遣唐使によって唐明州(寧波)で客死した石川道益の墓前でその祭文が読まれる運びになったのである。しかし、その実現は唐側の政情によって出来なかったようである。
⑥火をもって位記の文を焼くべし・・・位記の紙を焼くことで死者の霊魂に届くという考えが分かる。ただそれは唐土の風習であって、日本には確認できない。

【研究】
円仁一行が天台山へ向う許可が唐側から下りない。日本国遣唐使が唐国に入国するには特別な手続きが必要とされた。まず入国地の所管州役所に入国申請願いを出す。唐後期の藩鎮割拠時代では都督府に出す。唐側州知事の刺史、都督は中央朝廷の裁可をまつ。門下省から勅旨が下って、上京の人数や待遇が指示される。唐滞在費用はほとんど日本側負担である。福建に入国した時、悪待遇に抗議した弘法大師空海の文章が残る。文句を言わないと改善はない。唐側が日本遣唐使に友好的であったことは全く無い。唐側はあくまで朝貢使節と扱うのである。