慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その17-

○十月二十四日、人を雇って、受戒して出家となった惟正らの坐具2箇を作らせた。当開元寺の僧貞順またこの人を雇うことに責任をもってくれた。坐具一条の料金は、絁(つむぎ)二丈一尺①である。表は八尺四寸、裏八尺四寸、縁料四尺二寸。二つの坐具の料は、すべて計四丈二尺となり、作り手の功(手間賃)は一つを作るに二百五十文を用いる。二つで五百文である。

○十月三十日、斎(朝食)の前に零霰(あられ)が降った。

○十一月二日、維摩関中疏四巻②を買う。価は四百五十文。断銅の勅③有り、天下の売買に許さず。聞くならく、六年一度は例としてこれ有り。恐らくは天下の百姓④一向(ひたすら)に銅器を作り、銅の銭に鋳るもの無し。禁断の所以なり。

【語句説明】
①二丈一尺・・・唐尺は一般に使用する大尺は30・5センチメ-トルであるが、衣類繊維製品に使う尺は衣尺といい、かなり短く、1尺が24・3センチメ-トルで、これから二丈一尺すなわち21尺を計算すると510・3センチメ-トル、すなわち5・103メ-トルとなる、約5メ-トル余。
②維摩関中疏四巻・・・正しくは『浄名経集解関中疏』四巻、唐の道掖の編、慈覚大師円仁の帰国後、朝廷に出した蒐集経典目録『在唐送進録』には「浄名疏」四巻、沙門道掖撰とある。これは鳩摩羅什訳『維摩経』(「浄名経」]に対して羅什のほか、その弟子のいわゆる関中四傑(道融・僧叡・僧肇・道生)らが注釈を加えたものを集めて編集した。敦煌本「浄名経集解関中疏」二巻と同一とされる説がある。中央アジア亀茲国や敦煌ら西域地方から陝西省長安に活躍した4世紀、五胡十六国時代の前秦王朝の時代の鳩摩羅什とその門弟の仏教は5、6世紀に南朝江南に伝わり、江南仏教として開花した。隋から唐へ江南仏教は発展し、円仁入唐時期に至ったのである。江南仏教者のひとり、6世紀後半、陳・隋両王朝の国師である中国天台宗の高祖天台大師智顗禅師にも鳩摩羅什訳『維摩経』の注釈書の著作がある。維摩経では在俗の維摩居士(ゆいまこじ)が偏狭な仏弟子、出家を啓発し、般若の空理によって不可思議な解脱の境地を体得し、一切万法を悉く不二の一法に帰することを、すぐれて戯曲的手法をもって説いている。維摩と文殊菩薩の対話も有名。
③断銅の勅・・・銅の流通、使用の禁令。
④百姓・・・日本では一般的に百姓と言えば農民を指す。また現代語でも「百姓する」と言えば農業をする、農作業をするという意味になるが、中国では本来百の姓で、多くの姓氏の人びとのことである。ただ、「農本商末」といい、農業は正業であるので、農民は国家の良民とされ、皇帝になれる有資格者であった。この場合には中国でも百姓は農民である。

【研究】
円仁が入唐の目的は比叡山延暦寺を開いた宗祖、伝教大師最澄が志した顕密一致の仏教の総合的理解のために多くの経典を蒐集し、また時代の朝野が求める密教修法を具体的に受法して帰朝することでした。受戒して出家となった惟正らにはその助手を期待されました。坐具は座禅用具でもありますが、写経にも使われます。十一月二日に、維摩関中疏四巻を買うとあります。平安貴族らの在俗信者のためもありますが、南都の大寺興福寺の維摩会にも参加しなければなりません。仏教でまだ法会が学問論争の余韻を留めた時代でした。

以下次号