慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その23-

○十一月二十九日、天晴れ、揚州四十余寺有り。なかんずく、過海して来る鑑真和上①の本住せる龍興寺は、和上の影像が現在す。法進僧都②の本住は白塔寺なり。臣善③なるものこの白塔寺にありて「文選」を撰す。恵雲法師④もまたこれ白塔寺の僧なり。
州ごとに開元寺あり、龍興寺はただ揚州の龍興寺のみ。申の時(午後4時ころ),長安の講百論和尚⑤可思⑥が来りあい見ゆ。また第一船判官藤原朝臣貞敏は先頃病に臥して辛苦す。ことに発心して妙見菩薩と四天王の画像を作らしめんとするに、よってこの日粟田家継をしてこの寺に至りて仏を画くところを定めしむ。
○十一月三十日、早朝、迦毘羅神堂⑦裏において、初めて妙見菩薩と四天王像を画く。

【語句説明】
①鑑真和上・・・揚州江陽県の人、14才で出家し、揚州大雲寺に修業、則天武后時代後半、唐中宗景龍元年(707)長安実際寺で具足戒を受け、ふたたび揚州にもどり大明寺に住した。戒律第一の盛名を得、わが入唐僧栄叡・普照の懇請を受けて、玄宗天宝2年(743)渡海を試み、何度も失敗して困難辛苦、失明にも見舞われた。ようやく第6回目、天宝12年(753)遣唐使船の帰りに乗り薩摩国(鹿児島県)に到着、孝謙天皇天平勝宝5年のことである。翌年上京したが、朝廷はこれを厚遇し、大和尚と呼び、伝燈大法師位を授けた。聖武上皇自ら菩薩戒を受け、東大寺戒壇院を創建させた。やがて奈良西の京に移り唐招提寺を創建、日本律宗の開祖となった。②法進僧都・・・鑑真の弟子、揚州白塔寺に住したが、師とともに日本に渡海し、戒律伝道に尽力した。③臣善・・・李善のこと。揚州江都県の人、唐高宗中に崇賢館直学士兼沛王侍読となり、南朝梁の粛統撰三〇巻本『文選』に注した。李善注である。④恵雲法師・・・彼も鑑真に従って来朝した。讃岐の屋島寺の開基で知られる。⑤講百論和尚・・・百論を講義する和尚。百論は提婆菩薩造、鳩摩羅什の訳で三論の一、中道の立場から、それ以外の諸思想を批判する。中論は龍樹菩薩造はあらゆる相対的観念を打破して、縁起説の中道を説く。中観論ともいう。同じく龍樹菩薩造の十二門論も一切皆空を十二章に渡って解説する。いずれも鳩摩羅什の訳である。以上三論を根本経典とした宗派に南都六宗の一つ三論宗がある。百論の疏には隋吉蔵「百論疏」が名高いが、円仁将来目録には「百法論顕幽抄」以下がある。⑥可思・・・伝不詳。⑦迦毘羅神堂・・・迦毘羅カピラは仏法を守護する神であった。東方を守り、治病福徳のことを司る。興福寺国宝八部衆として阿修羅とともに名高い。ただ迦毘羅神堂の事例は日本では聞かない。

【研究】
揚州開元寺滞在中の慈覚大師円仁の十一月末日の行動である。円仁の入唐求法の具体が詳細に分かるが、本節では過海伝戒和尚鑑真和上とその弟子法進の揚州本住寺院の龍興寺・白塔寺への言及が注目される。日本天台宗祖の伝教大師最澄や四祖慈覚大師円仁らは、鑑真和上が中国天台所依の経典であった『法華玄義』『摩訶止観』『四教義』『天台行法華懺法』『天台小止観』の我が国への最初の将来者であることを重視している。