釈迦如来、お釈迦さまの話-その9-

舎利弗・目犍連 仏の二大弟子として有名な舎利弗(シャ-リプッタ)・目犍連(また目連、モッガッラ-ナ)の2人はともにバラモン(婆羅門)出身の青年でしたが、バラモン教の教えに満足できず、新しい法を求めてサンジャヤという出家の弟子となりましたが、それでも心の満足は得られず、さらにすぐれた教えを求めていました。その時、仏弟子五比丘のひとりアッサジが王舎城の通りを托鉢しているのに出会い、彼のいかにも落ち着いた態度、すがすがしい顔つきに驚き、これこそ求めていた師だと二人は思い、彼にその教えを請うと、アッサジは自分は出家後日も浅く,十分に教えを説くことはできないが、自分の師である大沙門はこのように説いていると言って、簡単な語句を述べました。賢明な舎利弗はこの1語句によって、お釈迦さまの教えの特徴を知り、お釈迦さまのところへ行こうと決心しました。

六師外道 釈尊時代にお釈迦さまのほか(外)にインドガンジス川中流域で新しい教義を持つ優れた沙門が六人居ました。仏教のお釈迦さまの外の教えの先生という意味で六師外道と呼ばれます。お釈迦さまと同じ出家ですが、大きな違いはお釈迦さまが坐禅瞑想や難行苦行ではさとりは開かれないとしたのに対して、あくまで難行苦行の厳しい修行によってさとりを得ようとしていることです。

マハ―ヴィ-ラのジャイナ教 六人のひとりにニガンタというお釈迦さまと同じ王族出身の出家で,釈迦が活躍したと同じ地域を同じころに教化して遊行していました。その教えはジャイナ教と呼びます。徹底した不殺生で平和主義者でした。不殺生すなわち生き物を殺すなは厳格で農業も土中の生物を殺すとしてジャイナ教徒は商業を職業にすることを余儀なくされました。それでジャイナ教信者には商業に成功する者が続出しました。それが大いに流行して今日にもインドの財閥や実業家ビジネスマンにジャイナ教徒が多いのです。なお、ニガンタはお釈迦さまのシッダ―ルタのような名前ですが、ゴウタマ・釈迦牟尼(釈迦族の覚者)また釈尊と呼ばれたようにマハ-ヴィ-ラ(大聖者)と呼ばれました。

釈尊とマハ-ヴィ-ラ 釈尊とマハ-ヴィ-ラが互いに出会い面識がああったという記録はありません。ただ、マハ-ヴィ-ラの弟子たち、すなわちジャイナ教徒は裕福なお金持で、釈尊や仏弟子に出会い、さかんに問答往来していました。両教徒の交流地域はガンジス川中流域だけでなく、遠く北西インド、西インド、南インドまで及び、各地域から釈尊の下で出家して仏弟子になることを希望する若者が増加しました。

釈迦同族の仏弟子 お釈迦さまと同じ釈迦族の王族からも釈尊の下で出家を希望する若者が出ました。従兄弟のア-ナンダ(阿難)、アヌルッダ(阿那律)、異母弟のナンダ(難陀)、お釈迦さまの実子であるラ―フラ(羅睺羅)、のちに釈尊に背いたデ-ヴァダッタ(提婆達多)も従兄弟のひとりでした。

国王・長者の外護 在家の信者も増加しましたが、マガダ国王ビンビサ-ラをはじめ、コ-サラ国王パセ-ナディ(波斯匿)が有名です。国王と共に各地の豪商富商も多く仏教を信仰し、かれらによって各地に仏教寺院が建立されました。コ-サラ国の首都シュラ-ヴァスティ(舎衛城)には給孤独長者の建てた祇園精舎があり、信女ヴィサ-カ-建てた鹿母講堂などがありました。

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