慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その25-

○十二月九日、本国判官藤原朝臣貞敏は開元寺において斎を設け、銭五貫六百銭を出して新に画ける阿弥陀仏・妙見菩薩・四天王像ならびに六十余人の衆僧に食を作し、供養せしめた。またこの日をもって、龍興寺法花院の壁に南岳・天台両大師像を写①させた。
○十二月十八日、未時(十三時から十五時)、新羅訳僧金正南②は遣唐使諸使の帰国の船を定めん③がために楚州に向かって出発した。申の時(十五時から十七時)、勾当王友真が来て云うに、「大使らは今月三日をもって唐都長安に到着された」と。近日、大使にあい随いて入京し、書牒を勾当(検査)して州衙(揚州の役所)に達したてまつらん。また沙弥らの受戒のことは相公(李徳裕)は許さない。先頃、勅があって受戒は禁止である。勅許が無ければ、未だ允許すべからず」と。
○十二月二十日、新年の暦を買った。夜分になって雪が降った。
○十二月二十一日、雪が止んだ。天は曇っている。
○十二月二十三日、天は晴れた。第一舶の匠運射手④ら五十余人が寺の斎食に来、兼ねて念経させた。斎食の後、無量義寺僧道悟が来り相見ゆ。自らいう、真言を解すと。更に栖霊寺文琛法師有り。伝え聞くに真言の法を得たと。近ごろ聞くならく、三論留学僧常曉は彼の寺に住み、琛法師の房において、真言法を受け、擬すらくは両部曼荼羅を画かせたり。
○十二月二十九日、暮れ際、道俗共に紙銭を焼く。俗家は後夜に竹を焼き、爆声と共に万歳をいう。街店の内、百種の飯食、常とは異なり弥よ満る。日本国はこの夜には宅屋裏門前など到る処悉く灯を点ぜり。大唐はしからず、ただ常灯を点ず。本国に似ず。寺家は後夜に鐘を打ち、衆僧は食堂に参集し仏に礼す。仏に礼する時、衆皆床を下り、地上に座具を敷く。仏に礼し了りて、また床座に上る。時に庫司の典座の僧あり。衆前に歳内の種々の用途の帳を読み述べ衆に聞知せしむ。未だ曉明に及ばず、灯明にて粥を食う。飯食了れば自房に散ず。朝遅く各々自房を出て観礼し、衆僧共に礼謁す。寺家の供を設く、三日にして止む。

【語句説明】
①龍興寺法花院の壁に南岳・天台両大師像を写・・・円仁は揚州龍興寺法花院の壁に南岳慧思禅師と天台智者智顗禅師の両者を粟田家継に模写させた。開成四年正月三日の条参照。②新羅訳僧金正南・・・円仁は別に丁満という新羅訳僧が居た。訳僧は華語通訳にして僧侶である。③諸使の帰国を定める・・・円仁が参加した承和の遣唐使は第一船、第四船は破損が甚だしく帰国に使えなかったので、大使藤原常嗣の命を受けた金正南は船の雇用交渉のために楚州、今日の淮南市に向かったのである。

【研究】
揚州開元寺滞在中、十二月年末行事が委しい。十二月二十九日は爆竹を鳴らし、除夜の鐘を打つなど、後世の風俗の原型が見られる。慈覚大師円仁は入唐求法の忙しい作業が年末でも続いている。