慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その26-

○開成四年己未、本国の承和六年(840)に当たる。
○正月一日、これ年日(元旦)なり。官俗は三日のあいだ休暇す。当寺、すなわち揚州開元寺も三日間に斎会がある。早朝、相公李徳裕は寺に入り、仏に礼して、帰られた。初詣である。
○正月三日、始めて南岳(慧思)・天台(智顗)両大師の像両鋪三幅を作らせた。韓幹という大梁の人で当代画手第一の名人がいた。禽獣の像を描き、その眼を作ると、ただちに飛び走った。南岳大師の顔影を調査し、揚州龍興寺に勅し、安置せる法華道場の瑠璃殿南廊の壁上にあるのを写させた。それを遣唐使従者の粟田家継に写し取らせ、一も誤りはない。そこで家継に開元寺において絹本上に図せしめた。容貌衣服のすがたである。一に韓幹の様である。また法華院回廊壁上に法華経を誦ししばしば異感を致せし和尚らの影を画き写す。数は二十余り。瑠璃殿の東に普賢菩薩廻風の堂が有る。昔、火事が起こり、寺をすべて焼き、法華院に至る。誦経師霊祐がこの普賢堂の中で法華経を誦した。忽然として大風が堂内から起こり、火事をしりぞけ消してしまい、かの堂は焼けなかった。時人は普賢菩薩廻風の堂と名づけた。また東塔院には鑑真和尚の素影を安置している。閣に過海和尚の素影とある。さらに中門の内の東端に過海和尚の碑銘が建つ。碑の序に鑑真和上が仏法のために海を渡る事を記し、和尚が海を過ぎ悪風に遭い、初め蛇海に到り、長さ数丈余、行くこと一日すなわち尽き、次に黒海に至る。海色は墨のごとしと。また聞いたところでは勅符が揚州に来た。符状にいうには、朝貢使の奏に准じ、日本国使のために楚州(現在の淮安市)に牒し、船を雇わせ、三月をもって海を渡らせよと。すなわち円仁らの強制帰国の命令である。いまだその旨は詳かではない。

【研究】
前回の十二月二十九日に「暮れ際、道俗ともに紙銭を焼く」とある。紙銭とは本来は葬送に鬼神(死者の魂)を享祀(祭祀)するために作る紙の銭で、棺の中に入れる銭形に剪った紙である。中国のいにしえは圭璧幣帛を用い、漢代は銭を用い、皆、事終わればこれを埋めた。唐封演『封氏見聞記』には「紙銭は魏普以来已にこれ有り。今、王公より士庶に至るこれを用いざるは無し」とあり、三世紀の魏普以来、始めて紙銭を用い、事終わればこれを焼いた。ただ、それがもと道教的信仰に基づくといわれるが、三世紀には道教は成立しておらず、それは中国人の一般的死生観により、死者が死後土中で生活するため必要な銭だと説明すべきである。中国近世の明清以来、現在は金銀流通により、銭形の紙銭ではなく、金銀色紙の小紙を紙銭とし、紙銭焼きの火炉に投げ入れるものである。巡礼行記の当該「紙銭を焼く」は葬送儀礼ではなく、年末大晦日除夜の儀礼として祭神に供える紙銭を焼くのである。なお、円仁慈覚大師が将来した密教修法の中に、修法本尊に供える紙銭があるが、紙銭一枚は十文、銭十個が連なるもので、それを一修法千枚、すなわち一万文供することになる。「紙銭を焼く」に続いて、「俗家は後夜(丑の刻、午前二時)に竹を焼き、爆声とともに万歳をいうとある。爆竹である。爆声とともに万歳をいう。万歳と皇帝の寿命永遠を唱える。街店のうち百種の飲食、常とは異なりやはり満つ。百種の飲食は百味講を彷彿させる。○今回は年が改まり開成四年己未、日本国の承和六年(840)である。大師円仁入唐二年目、元旦の儀式もそこそこに正月三日には、始めて南岳・天台両大師の像両鋪三幅を作らせた。文物将来も入唐の大きな目的である。作業に精を出す。ところがその日とんでもない事態の知らせが入った。唐都長安の朝廷から遣唐使一行の渡海帰国を命じる勅書が来たという未確認情報である。

以下次回