釈迦如来、お釈迦さまの話-その14-

釈迦入滅直後の仏弟子・教団の形成 釈尊は釈迦国の首都カピラ城から南方マガダ国との中間にあるクシナ―ラ―という地方都市で80歳の生涯を閉じました。釈尊が没すると、残された多くの弟子のうち、500人の最も優れた阿羅漢たちは、釈尊の教えが正しく伝えられるために、マガダ国王舎城外において、3カ月間一堂に会して、釈迦の教法としての「法」と「律」を結集編集会議を開きました。これが第1次の仏典結集です。
ただ、当時の古代インドでは釈尊の教えは文字に現されることはなく、すべて口誦記録によって伝えられました。筆録された文字による仏典が出現したのは釈尊入滅後4、500年くらい経った紀元1世紀ごろとされます。釈尊入滅直後の仏典結集ではマハ-カッサバ(摩訶迦葉まかかしょう)が議長となり、ア-ナンダ(阿難あなん)が法を、ウパ-リ(優婆離うばり)が律を暗誦し、一同がその誤りないことを証明しました。釈迦十大弟子 釈尊の特に優れた十人の弟子を釈迦十大弟子また釈尊十大弟子と言います。智慧第一の舎利弗(しゃりほつ、サ-リプッタ)、神通第一の目犍連(もっけんれん、また目連もくれん、モッガッラ-ナ)、頭陀(乞食修行)第一の摩訶迦葉、天眼第一の阿那律(あなりつ、アニルッダ)、解空第一の須菩提(すぼだい、スブティ)、説法第一の富楼那(ふるな、プ-ナ)、論議第一の迦栴延(かせんねん、カチャヤナプラ、摩訶迦栴延子とも)、持律第一の優婆離、密行第一の羅睺羅(らごら、ラフラ)、多聞第一の阿難の十人です。釈尊入滅直後の仏典結集は頭陀第一の摩訶迦葉、多聞第一の阿難が法、持律第一の優婆離が律という組み合わせがよくわかります。
釈迦の法と律 多聞第一のア-ナンダ(阿難)の法、持律第一のウパ-リ(優婆離)の律とはそれぞれいかなるものでしょう。法とはダルマといい、釈迦が生涯の間に説いた説法を指します。お釈迦様の説法を間近で一番多く聞いた阿難は「我はかくのごとく聞いた」として暗誦内容を語ったのです。これは後に「阿含経あごんきょう」としてまとめられました。律とはヴィナヤ、大勢の仏弟子達の共同生活の規範として仏弟子同士が定めた生活規律です。律の集成を「律蔵」と呼びますが、釈迦の生涯の出来事や紛争、対する仏弟子集団の智慧がよく示されています。
釈尊入滅直後の仏典結集が釈尊の教えの全体が完全に残ることを意図したものであることが理解できます。