慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その29-

○開成四年正月十七日、沈弁①が来て、遅発のことに助憂した②。そこで円仁は質問した。「殊(こと)に相公の牒③を蒙り、台州に往く④ことを得るや否や」と。沈弁書もて答え⑤て云う、「弁、相公に諮問すること、前後三、四度なり。諮もて説くに、本国⑥和尚の台州に往くに、一文牒を擬して、得るや否やを審らかにせざらんや」と。
相公の説かれる所は、「揚州の文牒⑦、出でて浙西道⑧及び浙東道⑨に到るも、一事を得ず⑩、すべからく聞奏を得るべし。勅下らば即ち得て、余は得ざりき。また相公の所管の八州⑪は、相公の牒をもって、すなわち往還を得る。それ潤州・台州⑫は別に相公有り⑬て、各々管領有り。彼此の守職は、あい交らわず。恐らくはもしくは勅詔に非ざれば、もって順行無し」と。斎(朝飯)の後、当寺(揚州開元寺)の堂前に、珍奇のものを敷張し、四十二賢聖⑭の素影を安置す。異種と珍綵は、記し得るべからず。賢聖の容貌は、或いは目を閉じ観念し、或いは面を仰向け遠視し、或いは傍らに向かい語話するに有るに似たり、或いは面を伏して地を瞻(み)る。四十二像は皆四十二種の容貌が有り、宴坐の別あり、或いは結跏趺坐、或いは半跏坐、坐法同じからず。四十二賢聖の外、別に普賢・文殊像ならびに共命鳥⑮・伽陵頻伽鳥像⑯を置く。暮れ際、灯を点じ、諸聖の影を供養す。夜に入り、唱礼礼仏しならびに梵讃歎を作す。作梵法師一たび来入するや、或いは金蓮・玉幡を擎(ささ)げて、座を聖の前に列ねて、同声にて梵讃す。通夜⑰休み無く、一聖の前ごとに、埦灯⑱を点ず。

【語句説明】①沈弁・・・先の慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その27-の開成四年正月六日条に、相公節度使李徳裕の随軍沈弁とあった。揚州を治める淮南節度使李徳裕の側近である。②遅発のことに助憂した・・・助憂は同情の意味。助け憂うとは意味がよく分かる。慈覚大師円仁の天台山行が遅れていることに同情したのである。③相公の牒・・・淮南節度使李徳裕の文書・手紙。④台州に往く・・・台州天台山に慈覚大師円仁が行くこと。⑤書もて答え・・・この時点では円仁は中国語会話ができないので書き物によって通話した。筆談である。沈弁が字を書いて説明してくれたのである。⑥本国・・・「入唐求法巡礼行記」では本国は日本国のことである。⑦揚州の文牒・・・淮南節度使李徳裕の文書・手紙。⑧浙西道・・・浙西観察使、治所は潤州(鎮江)。⑨浙東道・・・浙東観察使、治所は越州(紹興)。⑩一事を得ず・・・全く効果成果がないの意味。⑪相公の所管の八州・・・淮南節度使李徳裕の支配州名は揚州・楚州(淮安)・滁州・和州・舒州・廬州・寿州・濠州(鳳陽)で楚州の淮安、濠州の鳳陽以外は現在でも同名の地名が行政区画名となっている。長江江北地域の江蘇省・安徽省の各州である。⑫潤州・台州・・・浙西観察使治所の潤州(鎮江)と天台山の所在する浙東道台州は、それぞれ浙西観察使と浙東観察使の支配領域である。⑬別に相公有り・・・「唐方鎮年表」巻5(『二十五史補編』第6冊)によれば開成四年(839)正月時点の浙西観察使は盧商、同浙東観察使は高銖である。なお、淮南節度使李徳裕は開成元年十一月から同二年四月まで浙西観察使で、同二年五月より淮南節度使に移っていた。⑭四十二賢聖・・・唐李師政の「法門名義集」には四十二賢聖について、「十解・十行・十廻向・十地等覚地・妙覚地、総合して数うに、四十二賢聖となす」とある。仏弟子高弟の羅漢であろう。なお、別に四十二使者というものがあり、これを説明した「諸仏要目」には、「怛利三昧経、毘盧遮那集会に同じ。此の経に不動尊らの四十二如来童像使者あり。もしくは真言行を修すに、菩薩の菩提心を堅持し、我ら承事供養擁護せり」とあるが、該当しないであろう。容貌姿がすべて異なるというのは羅漢的である。五百羅漢に続くものであろう。⑮共命鳥・・・ジバングジバカ耆婆耆婆の訳、妙声で一身両頭の形をもつというインドの霊鳥。⑯伽陵頻伽鳥・・・極楽浄土に住み、美妙な音声をもつ人頭鳥身の鳥。⑰通夜・・・夜通し。⑱埦灯・・・埦は椀・碗わんであるがこれに油を入れて灯明にしたものであろう。

【研究】
開成四年(839)正月十七日、相公淮南道節度使李徳裕の随軍沈弁が来て、慈覚大師円仁らの台州天台山行きが遅発していることを助憂した。そこで円仁は、「殊(こと)に相公の牒を蒙り、台州に往くことを得るや否や」と質問した。沈弁は李徳裕の節度使としての支配領域が浙西・浙東に及ばないことを理由に円仁らの台州天台山行きを確約しなかった。中国旅行では昔も今も良く有る移動の難しさが克明に記述される。ただ、本正月十七日の記事でも、当寺(揚州開元寺)の堂前に、珍奇のものが敷張しているのを経験した。特に四十二賢聖、羅漢像らしき素影を安置し、これに梵唄を唱え、法要を行っているのは珍しかった。