慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その35-

○二月二十一日、早朝、発ちてゆく。遣唐使従者粟田家継は先日、物を買うために船を下りて市に往く。所由すなわち係の役人が捉縛して州役所に抑留されたが、今日釈放されてここに来た。同じく第四舶の射手も免ぜられて到着した。江陽県の廻船堰に到って夜宿した。
○二月二十二日、辰の時、現在の午前八時ごろに出発。射手の身人部貞浄は市で物を買った。先日は捕まって役所に勾引されたが、今日は許されて来た。物も失っていない。久しからずして、第四舶の射手と水手二人は免ぜられて帰って来た。史生越智貞原も先日市に行き物を買おうとして、やはり所由が州の役所に通報して処分を申請されるはめになったが、今日は物を買い走ってやってきた。越智貞原は帰国後太宰府大典になり、円珍の入唐文書に署名している。しばらく行き、常白堰の常白橋下に到りて停留し、暮れ際に再び出発し、夜行の船旅となった。亥の時、午後十時ごろ、路巾駅に到って宿泊した。ここは後に露筋鎮という。
○二月二十三日、早朝出発。昨日と同じく辰の時、高郵県城に到り、しばらく駐どまる。北方楚州(淮南)宝応県境へは五十五里、南方江陽県へは三十三里、ただ唐の一里は五百メ-トルくらい。揚州の東廊水門を出て禅智寺の東より北に向かって進んだ。戌の時、午後八時ごろ、宝応県管内の行賀橋を過ぎ、しばらく行って停止。丑の時、夜中午前二時に再び出発した。
○二月二十四日卯の時、午前六時ごろ、宝応県白田市に到った。市橋の南辺に法花院がある。辰の時、宝応県城に到り停留した。近くに安楽館がある。旅人の宿である。南方揚州高郵県へ百二十里、北方楚州まで六十五里である。申の時、午後四時ごろ、楚州城に到った。遣唐使一行の判官・録事ら船を下りて駅館に入り、遣唐大使に拝見した。円仁ら請益僧、留学僧らも暮際に館に行き、大使・判官らに相見えた。大使が宣言していう、「唐京師に到って請益僧が台州天台山に往くことと、九箇の船を雇って、修理することを唐天子の上奏したところ、外国人担当の礼賓使は、請益僧らに対見する前に許可を出すのはできないという。再三懇請したところ、船の修理は許可するが、請益僧が台州天台山に往くことは許可できないとのこと。しかも遣唐大使の帰国の日にちは迫っている。円仁らが台州天台山に往って、帰り大使一行と一緒に帰国する時間はない。ただ留学僧一人だけは天台山へ行ってもよい。五年分の食費は支給すると唐朝廷は言う。それ以上いくら頼んでも許可は下りない。まことに遺憾の極みであると」と大使は円仁に言った。その対話の後に開元寺に入り、厨庫の西の亭に住した。

【研究】
唐の開成4年(839)2月21日から24日まで、円仁の旅行記は連日克明に書いている。揚州から大運河をひたすら北へ急ぎ、24日は揚州とは別の州の楚州に到った。今日の淮陰市である。ここで唐の都長安に行った遣唐使大使に面会し、唐側が円仁の天台山行きを許可しないという言を聞かされた。その日は円仁は楚州開元寺に定住した。