慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その36-

○二月二十五日、真言請益僧円行法師①に相見えた。法師が語っていうには、「遣唐大使は京にあって再三、自分の請益のため寺裏に住せることを願い上奏したが許可されなかった。後にまた上奏したが僅かに青竜寺②に住することだけが許された。義真座主③の所において、十五日に胎蔵法を受け④、百僧に供養⑤したのだが金剛界法を受けなかった」と。
○二月二十六日、早朝、全雅⑥が来た。惣管が住寺を認めないので、龍興寺に移住した、あい去ること五里である。揚州(節度使李徳裕)より牒が有り、楚州(淮安府)ならびに勾当王友真及び日本国朝貢使に牒するものなり。その状を案ずるにいう、「留学僧円載・沙弥仁好・傔従始満は、朝貢使が奏して台州に往き学問せんことを請うに、奉じたる勅には宜しく請うところに依れ」と。件の円載等は牒もて、楚州に往き、朝貢使と別れ、逆方向に廻り揚州に到り、便ち天台山の台州に往かんことを請う。李徳裕相公の判を奉じ、状に准ぜよとするものなり。今、朝貢使に別れ訖り、擬すらくは台州に遣わさんとす。同十将王友真は、留学僧等を勾当押領し、一小船を雇い、早く送り来たらしむ。州司は出発を待ち、食糧を給した、相公の判を奉じ、状に准ぜよとは、具に牒文に在り。王友真は留学僧らを催促して勧め、縦容とするのを許さなかった。日本国持節大使正三品行太政官左大弁守鎮西府都督参議〈参議は是れこの間平章事なり〉、大唐国雲麾将軍〈是れ二品〉検校太常卿〈是れ文官正三品官〉、兼左金吾衛将軍〈是れ武官第一、国親所除職也。正三品〉、員外置同正員。

【語句説明】
①真言請益僧円行法師・・・円行法師は円仁の入唐と同じ遣唐使一行の真言請益僧で遣唐大使に随行して長安に上京した。②青竜寺・・・先に真言宗祖空海が恵果阿闍梨から金胎両部の密教を伝法された長安の寺院。③義真座主・・・青竜寺恵果阿闍梨の法、義操の弟子にして、開成年間には伝法阿闍梨として同寺東塔院に住した。この後に長安に入った円仁も同阿闍梨から伝法を受けている。④十五日に胎蔵法を受け・・・十五日にの意味は不明。⑤百僧に供養・・・円仁も揚州開元寺で百僧供養会を行っている。外国から入唐した僧の慣例のようだ。⑥全雅・・・揚州嵩山院持念和尚全雅、青竜寺恵果阿闍梨の孫弟子とも、不空三蔵第四代の法孫ともされる高僧で、円仁は揚州において金剛界曼荼羅を付嘱しているが、胎蔵界曼荼羅は未修であった。全雅はわざわざ楚州まで来て円仁に胎蔵界曼荼羅を伝法しているのである。

【研究】
唐の開成4年(839)2月25日、真言請益僧円行法師に会った。長安からの帰りである。青竜寺で義真座主から胎蔵法を受け、百僧供養会を行ったが金剛界法を受けなかったという。翌日、2月26日には揚州嵩山院持念和尚全雅が楚州に来た。円仁に胎蔵界曼荼羅を伝法するためである。同日、揚州(節度使李徳裕)より牒が有り、留学僧円載らが台州に往き天台山で学問することは認めるという。ただ、円仁の天台山行きは依然として許可されない。また、この日円仁らの入唐時の遣唐大使藤原常嗣が唐の文武の官位の叙任を受けた記事が興味深い。ただ、日本国の遣唐使は朝貢使の扱いである。