慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その37-

○二月二十七日、留学僧は揚州に向くために随身物を安排(整理)した。朝の斎食後、日本国大使は留学僧に東絁①三十五疋・帖綿十畳・長綿六十五屯②・砂金二十五両大両③を賜り、学問料に宛てしめた。朝貢使は勾当王友真に酒を賜り飲ませ、別れを惜しんだ。斎食後、日本国の相公は留学僧を喚び、沙金を賜り、涙を流して別れを慰めた④。円澄⑤がいうには、「去る月四日、長安より発して帰還した。十三日、陝州の甘棠駅に至る。楚州に留まり、さらに揚州に向かうとする。官人等は在京の日より病気となり辛苦している。しかるに去月十三日には唐朝廷の内裏に入るもの二十五人、録事は入内できなかった。会集した諸蕃は五カ国、南詔国⑥が第一位、日本国は第二位、自余はみな王子にして冠を著けず、その形体は屈醜いにして皮氈などを着る。また留学生は道俗らすべてこのところに留まることを許されない。円載禅師のみ独り勅命で往き台州に留まることを許された。自余はみな本郷へ帰るべしと。また請益法師円仁が台州へ行くのは許されない。あれこれしたけれども円仁の天台山行きは遂に許可は出なかった。大きく嘆息するのみであった」と。 円仁は日本の天台大座主が天台山に寄せた書面一函並びに納袈裟と比叡山延暦寺から持参した未決、修禅院の未決など、留学僧に持せて天台山に届けさせた。

【語句説明】
①東絁・・・あづまの絁(つむぎ)、関東産の絹織物、必ずしも低級品ではなく、当時高級品であった。正倉院御物に現存する。②帖綿十畳・長綿六十五屯・・・綿は「もめん」ではなく、「まわた」、絹製品である。万葉集には筑紫綿がとくに上等という。小さく畳んだ綿が帖綿で十枚、長い綿が六十五屯の重さ。『通典』によれば唐では綿六両という。③大両・・・唐では大両1両は37・5グラム、小両1両は12・5グラム。市中通常は小両を用いる。大両を使うのは贈答品のため。④斎食後、日本国の相公以下、前文の繰り返し。誤文。⑤円澄・・・小野勝年氏は円澄は前回出てきた円行の誤りという。この箇所円仁には誤字誤文が多い。⑥南詔国・・・唐代中国雲南にあった王国。漢代の滇国の後。円仁の時代、チベットの吐蕃が優勢で、唐は南詔と結んで吐蕃に対抗しようとした。日本は本来朝貢国ではないので優遇したつもり。それでも朝貢国扱いである。

【研究】
唐の開成4年(839)2月27日、留学生には遣唐使から高額の奨学金が支給された。もっとも留学生に持たせて天台山に贈答するのである。
唐都長安から帰ってきた真言請益僧円行法師が円仁に天台山行きは唐政府から許可が出ない話を聞かされた。当時の唐の国際情勢の厳しさを示すものである。日本国の遣唐使は朝貢使の扱いである。なお、莫大な金額の沙金・絹製品を支給されて天台山に留学させて貰った円載は帰国しなかった。悪者である。森鴎外『舞姫』のドイツ留学生とも根本的に異なる許せない存在である。留学生は帰国して国恩に応える義務がある。