慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その38-

○二月二十八日、朝食の斎の後、留学僧円載と従者二名①と世話役勾当王友真は船に駕して、揚州に向けて出発した。円仁らは惜別の情のあまりがっくりきた。
○三月一日、日本国の相公(遣唐大使)は日本人の画工三人を円仁に同行させ、楚州(淮安)開元寺において、妙見菩薩②・四天王像を画かせた。これは遣唐大使が海中漂没せんとしたる時発願せしところなり。
○三月三日、相公李徳裕は開元寺において斎食を設け、六十余僧に供した。銭の喜捨は七貫五百文、もって斎食と布施に宛てさせた。斎の後、天台山禅林寺③の僧敬文が揚州より来り、日本国の無行法師④に送るの書札一封を寄送するとして、比叡山の円澄座主⑤宛ての書状を寄せてきた。この敬文は揚州より来たが、路では円載阿闍梨に逢はなかったという。僧敬文は到着するやいなや開元寺に入ろうとしたが、看門に制止され、崔家禅院に移った。円仁は惟正⑥を遣わして慰問し、兼ねて従者に細茶⑦を贈呈させた。夜、遣唐大使が海中で発した願を遂げるため、開元寺の堂内において、千盞⑧の灯明を点じ、妙見菩薩・四天王を供養した。画像完成である。そこで重ねて誓いをさせ、去年漂没の時、更に願を発し、無事陸に到る日、己の身の高さに准じて、つまり等身大の妙見菩薩十躯・薬師仏一躯・観世音菩薩一躯を画きましょうと誓った。しかし着岸の後、公事繁多、兼ねて旅行中、諸事備え難く、修造すること能わず。本国に帰った後前件の功徳を画造する云云と。この楚州では三月三日の節句をやっていない。

【語句説明】①留学僧円載と従者二名・・・従者二名は沙弥の仁好と始満、円載の弟子となり、やがて帰国した。円載は帰国せず、留学生の本分に違うことなる。②妙見菩薩・・・本地については諸説、慈覚大師円仁の理解では北極星を神格化したものとし、国土を守護し災厄を除く菩薩。三井寺流の天台寺門では吉祥天と同体とみる。二臂、四臂があり雲中に結跏趺坐する姿、また青龍に乗る姿もある。遣唐使が海中漂没する時発願したとあれば、北極星の神格化が妙見菩薩という説明がよく分かる。海上の方角判断は北極星である。妙見菩薩・四天王像を画かせたということはすでに前年十一月二十九日、卅日条に記事が見えるが、その場所は揚州でそこでは妙見菩薩と四天王像を描くことは完了しなかった。③天台山禅林寺・・・天台山で国清寺と並ぶ名刹で、仏隴に在った。④無行法師・・・日本天台宗祖最澄の十四高弟の一人。最澄入唐では通訳僧に義真を同行させた。義真後に初代天台座主となる。無行を中国天台山側がなぜ知っていたかは不明であるが、無行もまた最澄入唐に同行した可能性はある。⑤円澄座主・・・二代天台座主、武蔵国埼玉郡人、俗姓壬生氏、承和元年(八三四)三月十六日座主任、同三年(八三六)十月二十六日入滅。円仁は入唐中で円澄座主入滅を知らなかった。この年より比叡山は円仁が帰朝し、三代座主就任の仁寿四年(八五四)四月三日まで座主空席。⑥惟正・・・円仁の入唐求法の旅には惟正・惟暁という二人の弟子が随行した。入唐初年の承和五年・開成三年で惟正は二十六才、惟暁は二十七才であった。
⑦細茶・・・細は粗の反対で新芽を摘んで精製した上等の茶。ただ、日本持参ではなく、唐品とされる。⑧盞・・・この漢字の意味は「さかづき」であるが、油皿の皿のこと。

【研究】
唐の開成4年(839)二月二十八日、朝食の斎の後、留学僧円載らは船に駕し揚州に向けて出発した。円仁らは惜別の情が深い。三月一日、日本国の相公(遣唐大使)は日本人の画工三人を円仁に同行させ、楚州(淮安)開元寺において、妙見菩薩・四天王像を画かせたといい、これは遣唐大使が海中漂没せんとしたる時発願せしところという。妙見菩薩の信仰が慈覚大師円仁の入唐求法の海上危難の経験に関係することは注目すべきである。それが円仁の天台山巡礼が不可能となった時点で実現したことも意味がある。ここに円仁の入唐求法の新しい創造的な行記が始まる。三月三日には楚州(淮安)開元寺において、土地の節度使相公李徳裕の斎食接待を受ける。天台山禅林寺僧敬文との交流がある。夜、日本国の相公(遣唐大使)が海中で発した願を遂げるため、開元寺の堂内において、千灯供養で妙見菩薩・四天王を供養した。画像完成である。さらに、この楚州では三月三日の節句をやっていないと記す。