慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その42-

○三月二十九日、平明①に(午前四時ころ)、九隻の船は帆を懸けて発ち行き、卯(午前六時ころ)の後、淮河河口より出て海口に至り、北を指して直行した。客を送る軍将②は波高きに縁り、相随うことをしなかった。水手の稻益は便船に駕して海州に向け去った。東と南の両方角を望見すると、大海は黒く幽遠である。始めは西北より、山と島が相連なり、即ちこれは海州管内の東の極である。申の時(午後四時ころ)、海州管内東海県の東海山③の東辺に到り、澳(みなと)に入り停泊する。澳より東方近くに胡洪島がある。南風しきりに吹き、揺り動くこと比類がない。その東海山は本当に高石重巌、海に向かって険峻、松樹は麗美、はなはだ愛怜である。愛怜は珍重愛すべきであるの意味。山頭より陸路にて東海県に到る距離は百里である。一里500メートルとして5万メートル、50キロメートルである。
○四月一日④、天晴れ、雲気趨り騒ぐ。未の時(午後二時ころ)、節下すなわち遣唐大使以下、陸岸に登り、天神地祇を祀祠された。久しからずして雨が降ってきた。艮風すなわち東北の風がややしきりに吹き、波浪は猛烈に涌く。諸船は踊り騰り、小澳に船多く、しばしば互いにぶつかった。驚くことが殊に多い。円仁は留学僧円載のことを比叡山に書状を送るため、楚州で分付された音信の書四通と黒角犀の如意一柄を紀伝留学生⑤長岑宿祢に転付して国に帰らせた。官人は、祭祀の後、共に渡海のことを議す。新羅の水手が申して云うには、これより北一日に、密州が管する東岸に、大珠山が有り。今南風を得て、更に彼の山に到り、船を修理す。即ち彼の山より、海を渡るは、甚だ平善たるべし。遣唐大使はこれに従おうとしたが、諸官人は肯定しなかった。
○四月二日、風が西南に変わった。節下、遣唐大使は諸船の官人を喚集し、重ねて進発を議し、自己の考えを申せしめた。第二船頭長岑宿祢が申べて云うには、その大珠山は計るに新羅国の正西に当たる。もし彼に到って進発すれば、災禍は量り難し。加うるに彼の新羅に張宝高乱を興して相戦う。西風及び乾坤の風⑥を得れば賊境に定着する。旧例を案ずるに、江南の明州(寧波)から進発した船は新羅境に吹着した。また揚子江より進発した船は。また新羅境に着いた。今、この度九箇船、北へ行くこと既に遠い。賊境に近きを知り、更に大珠山に向かう。専ら賊地に入る。此より渡海は大珠山に向かうことは止めにせよ。五箇の船は此の議に同じた。遣唐使は未だ同意されない。敵論すること多端なり。戌の時(午後八時ころ)、第一船より書状を遣わし、判官已下に報じた。その書状に称す、第二・三・五・七・九等の船は、船首(船頭)の情願に随って、これより渡海する。右は処分を奉じること、具には前者の如し。遣唐使の書状に随て転報すること既に了った。夜になると風が吹き、南北は定まらなかった。と

【語句説明】
①平明・・・夜が開け始めた時。②軍将・・・楚州(淮南)刺史が九隻の船を管送するために派遣した警護の軍将。③東海山・・・小野勝年氏らは雲台山すなわち鬱林山の俗称とする。④四月一日・・・三月は小月で三月二十九日の翌日は四月一日である。⑤紀伝留学生・・・紀伝留学生は漢文学修得のための文章留学生が遣唐使一行に加わっていたが、正史歴史書の紀伝体を学ぶ留学生が居たのである。⑥乾坤の風・・・北西また南西の風。

【研究】
唐の開成四年(839)三月二十九日から四月二日の連日の記事、山東半島南方の淮河流域で西風を受けて東へ渡海すると新羅国境に入ってしまい、やっかいな国際問題を引き起こす。新羅を賊地と呼んで警戒しているのは注意したい。この場合、日本からの遣唐使が唐帝国への朝貢使節であったら、唐の新羅国に対する日本船保護の命令も出ようが、遣唐使は朝貢使節ではないので、新羅国境に入れなかったのである。