古典会だより お彼岸

三月二十日ごろの春分、九月二十二日ごろの秋分の日は、多少のズレはあるものの、昼と夜の長さが全く同じで、その日太陽は真東から昇って真西に沈むというのです。太古より人類は太陽と月や星の動きに注目し、観察し、関連づけ、知識や智恵を得て来ました。
紀元前2、3世紀の前漢時代の書物『周礼』に「天子は常に春分には日を朝し(太陽をまつり)、秋分には月を夕す(月をまつる)」とあります。春分は冬至から少しずつ勢いを増した太陽が、より一層強くなり、農作物が順調に育ち、生物が繁茂して行くのを願い、秋分は夏至を経て成熟から収穫への予祝を夜長の月に願ったのでしよう。「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があります。日と月、陽と陰、昼と夜、夏と冬など、相対して考えるのではなく、緩衝点、いわばクッション点となっており、春分・秋分を中日(なかび)として、前後三日間を考えた七日間が彼岸ということになりますが、それは仏教思想に由来してのことです。
人が生老病死に苦しみ、悩み、迷う現実のこの世を此岸(しがん)とし、そこから抜け出て超越し、自由な、仏のさとりの境地を彼岸、一には到彼岸(波羅蜜多はらみった)といいます。
平家物語』冒頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響(ひびき)あり、沙羅双樹の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰のことわりをあらわす」とありますが、「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽 諸行は無常である 是れ生滅の法なり 生滅滅しおわりて 寂滅を楽とす」といい、さらにイロハ歌として知られる イロハニホヘト 色は匂へど チリヌルヲ 散りぬるを ワカヨタレソ 我が世誰ぞ ツネナラム 常ならむ ウイノオクヤマ 有為の奥山 ケフコエテ 今日越えて アサキユメミシ 浅き夢見じ ヱヒモセス 酔ひもせず にも通じ、それを説いたのが、弘法大師の「文は一紙に欠け 行は即ち十四 謂うべし、簡にして要 約にして深し」と言う「摩訶般若波羅蜜多心経」(いわゆる般若心経)でしょう。266文字。
続日本紀』淳仁天皇天平宝字二年(758)八月十八日の詔勅に、摩訶般若波羅蜜多は、諸仏の母なり、四句の偈(諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽)などを受持し読誦すれば、福寿を得ること思量すべからず、これをもって、天子念ずれば、兵革、災難、国内に入らず、庶人念ずれば、疾疫、病気、家中に入らず、惑を断ち、祥を獲ること、これに過ぎたるはなし、宜しく天下諸国につげ、男女老少を論ずることなく、口に閑(しず)かに、般若波羅蜜多を念誦すべし。とあります。
源氏物語』行幸には、
かくのたまふ(源氏が玉鬘の裳着のこと)は、二月ついたちごろなりけり、
十六日ひがんのはじめにて、いとよき日なりけり。

とあり、『蜻蛉日記』天禄二年(971)二月には、
つれづれとある程に、彼岸に入りぬれば、なほ、あるよりは精進せんとて、
上むしろ、ただのむしろの、清きに敷きかへさすれば云云

とあるように、日本では千年以上前の平安時代ごろより、彼岸は仏事を行って、良い時節と考えられました。ただ古典の2月・8月彼岸月は現在の3月・9月です。寺にお詣りし、法要に連なり、説法を聞くだけでなく、今、現在の自分にかかわっての過去、そして未来、将来を思う時、人は必然的に親まで続く先祖、子や孫に思いをいたし、仏壇に手を合わせるだけでなく、分身ともされる墓地におまいりします。
最近の考古学では1万5000年前に始まる縄文時代より古い旧石器時代ころから、日本では葬送埋葬の遺跡があり、死者を丁寧に葬り、その後も共に生きて来ました。折りにふれるだけでなく、彼岸やお盆など時期を定め、先祖や亡き人への思いをいたし、日常への反省や新たな生への力を得て来たのかもしれません。
人が生きるためには衣・食・住の三要素が必要ですが、とりわけ、食は直接命にかかわります。
彼岸の入り、中日、明けには、野菜・汁物の他に桜飯(秋は黄葉モミジ飯)をお供えします。といだお米は水一目盛少なくし、火にかける間際に酒と醤油を好みで廻し、炊き上がったら、さっくり混ぜ合わせると醤油がほんわり心地良く香ります。春のボタモチ、秋彼岸のおハギの彼岸餅は、もち米をやや少なめの水加減で炊いて丸め、小豆餡や大豆のきな粉、ゴマなどをまぶしてお供えをし、それを下され物として「おさがり」としていただくことで、共に食する喜びと活力を得てきました。

○兄弟の相睦みけり彼岸過 波郷
○網干して秋の彼岸の漁やすみ 白兎
○ありがたかね、こまんか魚たちの命ばもろうて、私たちは生かされとる 杉本 栄子氏 石牟礼道子『苦海浄土』より
○折りて仏にたてまつるお花もひがん
○噛みしめる飯のうまさよ秋の風 以上 種田山頭火