仏像の展開 これまで述べた仏像は釈尊中心でした。これが釈尊以外の諸人に造像が展開します。もっとも初期仏教は釈尊とその説法を聞いた直弟子だけでした。直弟子たちは釈尊のお顔を見て説法を聞きました。しかし、釈尊のお顔を見ることの出来る人は限られています。耳で聞く人は見る人より多いのです。耳で聞いた人は他の人に聞いたことを口で話します。それを聞いた人はまた他の人に話します。『妙法蓮華経』法師功徳品に次の一節があります。
復た次に、常精進菩薩よ、もし善男子・善女人ありて、この法華経を受持し、もしくは読み、もしくは誦し、もしくは解説し、もしくは書写せば、千二百の耳の功徳を得ん。この清浄なる耳をもって、三千大千世界の、下は阿鼻地獄に至り、上は有頂に至るまで、その中の内外の種種のあらゆる語言の音声たる象の声・馬の声・牛の声・車の声・啼哭の声・愁嘆の声・法螺の声・鼓の声・鐘の声・鈴の声・笑う声・語る声・男の声・女の声・童子の声・童女の声・法の声・非法の声・苦の声・楽の声・凡夫の声・聖人の声・喜ぶ声・喜ばざる声・天の声・龍の声・夜叉の声・乾闥婆の声・阿修羅の声・迦楼羅の声・緊那羅の声・摩睺羅伽の声・火の声・水の声・風の声・地獄の声・畜生の声・餓鬼の声・比丘の声・比丘尼の声・声聞の声・辟支仏の声・菩薩の声・仏の声を聞かん。要をもってこれを言うに三千大千世界の一切内外のあらゆる諸の声は、未だ天耳を得ずと雖も父母所生の清浄なる常の耳をもって皆悉く聞き知らん。かくの如く種種の音声を分別すれども、しかも耳根を壊さざらんと。
以上、他の声を聞くということの多様な存在があり、これをいかに造形するか、南都興福寺の八部衆、十大弟子像を思い出してください。時にその阿修羅さんはなぜ悲しげなお顔をされているのでしょう。以下次回