秋は月が美しい、漢字の月は月の欠けた形で、三日月から上弦の月までの中間くらいの月。日の陽(太陽)に対して太陰である。日を男子とすれば月は女子です。もっとも日本神話の天照大神は女神の太陽神。中国思想の五行では月は水の精なりとされます。方位では辰であり、辰は月を主(つかさど)るとします。日月並ぶことから、人間位階で副の位置を指し、后妃、大臣、諸侯、衆臣にあてます。年月とは一年を一二に分けてその一を一月、太陽暦では一(正)・三・五・七・八・一〇・一二各月を三一日とし、二月は二八日(閏年は二九日)、四・六・九・一一各月を三〇日とします。それで月を数える単位も月と言います。また年月、歳月の月はとしつき、光陰をいう。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その4-
承和五年(八三八)七月二十日、卯の時の終わり、午前七時ころに赤岸村に着いた。土地の人に質問してみると、ここから一二〇里、一二キロメ-トルに如皐鎮①があると答えた。しばらく行くと堰が有り、たて壕を開削してあった。船便のためである。船に乗って堰を進発すると、如皐院がある。小野勝年氏は如皐塩巡院②と推測する。
不動明王・お不動さん
拝島大師本堂の大師宮殿の左手にお不動さんが祀ってあります。お不動さんは、正式には不動明王です。怒りの姿に偉大な力を示すもろもろの明王の中心尊です。不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王を五大明王また五大尊といいます。
古典会だより 七夕(たなばた)・お施餓鬼(せがき)・お盆(ぼん)さま
七月七日は七夕の節句、後漢の2世紀ごろより、牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)の二星に見立てられ、六朝の5、6世紀ごろより、年に一度の逢瀬の話となり、宮中では乞巧奠(きつこうでん)の節会として、山海の産物を供え、天皇の星合御覧・詩歌・管弦が行われました。
【漢字講座】年(とし、ねん)
年という字はどんな意味でしょう。
もとは秊という字に作りました。「千の禾(のぎ)」という形で、たくさんの穀物がみのるという意味です。秊は季節の季によく似た字です。いずれも上に禾(のぎ)が付いています。禾は茎を表す木の上に丿が付いた字です。丿とは穀物の穂が垂れる形を象ります。ですが、それでイネ稲の穂を表します。
慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その3-
承和五年(八三八)七月十七日、午の時(正午)、射手大宅宮継が押官ら十余人と、如皐鎮家①から三十余の草船②を率いて来たので、大使の様子を聞くと、大使は昨日鎮家に到ったという。申の時(午後十六時ころ)、春知乗(知乗船事の春道宿祢永蔵)・山録事(録事山代氏益)らが射手とともに東梁豊村③から来て寺(開元寺)の内に宿泊した。
大黒さん
拝島大師の参道東側に旧本堂が建っています。旧本堂は当山中興二十四世義順和尚が十年以上の歳月をかけて文政二年に(一八一九)再建したものです。
古典会だより -お節句の心ー
日本は春夏秋冬の四季に恵まれ、古来、季節の順当なめぐりを大切にし、節供・節会で祝いました。なお江戸時代から節供は節句に代わりました。節は節目の特別な日で、供は神仏に食物などの供え物です。正月のごちそうをおせち料理というのは正月節会が特に重視されるからですが、どの節句も特別のしつらいをなし特別のごちそうを用意します。
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毘沙門天の話
仏世界の須弥山〔しゅみせん)の中腹にある四天王天の主が四天王です。東方は持国天、南方は増長天、西方は広目天、北方は多聞天です。上は帝釈天に仕え、下は天・龍・夜叉・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅迦(まごらが)の天龍八部衆を支配して、仏法帰依の衆生を守護します。
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【漢字講座】鹿(しか)
馬の次は鹿、『平家物語』老馬に御曹司義経は「さては馬場ござむなれ。鹿のかよはう所を馬のかよはぬ様やある。」と言います。馬と鹿は同類です。動物の鹿という漢字を説明します。鹿の字はその頭・角・四足の形に象る。ただ、四足に当たる部分の比は「鹿の足はあい比(なら)ぶ、比に従う」とあります。比はまた人の字を二字逆さにしたかたちで、人と人があい接して親密なことを意味し、二つのものを比べることになります。鹿の足がみな親密に見えるのでしょう。鹿はまた古代中国では帝位に喩えられます。「中原の鹿」「中原に鹿を追う」は古来さまざまな典故があります。唐の詩人温庭筠の「五丈原を過ぐるの詩」には、「下国臥龍空寤主、中原に鹿を得るは人に由らず」とあり、『晋書』石勒載記には、「もし(後漢の)光武(帝)に遇い、中原に駆るべく、未だ鹿誰れの手に死すかを知らず」という。唐の魏徴も述懐詩に「中原はたまた鹿を逐うに、筆を投げて戎軒に事めよ」といいます。鹿は殷周以来帝王が狩猟で手に入れた獲物の代表で、帝位に比定されているのです。
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