古典会だより お参りの心 鐘

kane01寺社の本堂、社殿の前には、金属製の鈴や、扁円・中空で下方は細長い口のワニグチ鰐口が下げられ、参詣者は紐や綱を振り動かして打ち鳴らしお参りをします。当然の作法との説明に外国(キリスト教国)の客人から、何故ですかと問われ、他家を訪問の際のノックと似ていますと答えたら、大いに納得されました。紐や綱を握り、軽くコンコン、カランカランと打ち鳴らし、attention please で、御本尊の注意を引いてから、心静かにお願いを申し述べるわけです。

したがって余り強くや、乱暴に打ち鳴らすのは失礼、迷惑です。人びとが群集し大混雑の際は、大勢の無事なお参りのため、ワニグチや鈴の紐を巻き上げざるを得ません。その時は、御宝前に向かい御自身の両手をパンパンと打ち鳴らし、願いを申し述べ、お願いします、パンパンと勢をつけ、締めて退出するのです。kane02加えて、お参りの掉尾に鐘(梵鐘)があります。梵鐘の最初の記録は『日本書紀』欽明天皇二十三年(五六二)、大伴狭手彦が高句麗から持ち帰った銅鏤鐘三口(青銅製の飾り入りの鐘)で、次いで天智天皇十年(六七一)には漏剋(刻)を置き鐘と鼓で時刻を報じたとあります。鐘は仏教と共に中国・朝鮮から伝えられました。奈良中宮寺の国宝天寿国繍帳は、六二二年聖徳太子崩御を悲しむ妃橘大女郎が、太子の天寿国(隋仏教用語で西方極楽浄土)往生を願って発願、ほぼ一年以内には完成とされますが、そこには両端に鴟尾のついた入母屋造りの鐘堂で今と同じような形の鐘を撞く僧侶が描かれています。違うのは鐘の位置が低くて中国の鐘と同じく腰のあたりで撞いていることです。奈良時代前期から天平時代には独自の発達を遂げ大型化し、太宰府観世音寺、天平勝宝四年(七五二)東大寺が有り、その後平安時代には京都神護寺、宇治平等院、三井寺園城寺、降って鎌倉時代の鎌倉建長寺、同円覚寺が有名です。

漢詩文では白居易(白楽天)の「香炉峰下、云云」の詩の一句中に

日高く睡り足りて猶起くるに慷し、小閣に衾を重ねて寒を怕れず 遺愛寺の鐘は枕を欹て聴き、香炉峰の雪は簾を揆げて看る

同じく白楽天の長恨歌の中に、

夕殿蛍飛んで思ひ悄然、孤灯挑げ尽くして未だ眠りを成さず、遅遅たる鐘鼓初めて長き夜、耿耿たる星河曙けんと欲す天

とあります。次に張継「楓橋夜泊」に

月落ち烏啼いて霜天に満つ、江楓漁火愁眠に対す、姑蘇城外の寒山寺、 夜半の鐘声 客船に到る

「遺愛寺の鐘は 枕を欹て聴き」は清少納言『枕草子』に引かれ、太宰府に流された菅原道真も観世音寺の鐘の音に想いを重ねてます。
『万葉集』に笠女郎の

皆人を寝よとの金は打つなれど君をし思へばい寝かてぬかも

『蜻蛉日記』に、「天禄二年 日ぐらし語らひて、夕暮のほど例のいみじげなることどもいひてかねのこゑどもしはつるほどにぞ帰りける」
『夫木集』に大江匡房の、

雪ふれば高くなりける鈴鹿山、いかなる霜にかね響くらん

『今昔物語』に「観音の御前にして、師の僧を呼びて金打て、事の由を申させて」など枚挙にいとまありませんが、以上いずれにしても寺の僧侶が撞く鐘でしょう。

kane03◆鐘は梵鐘とも称し、合掌造りの鐘堂の桁の中心に、上端の龍頭と呼ぶ吊り鐶でつり下げます。下部に鐘座を二カ所設け、これに撞木を当てます。鐘座を結ぶ中帯と十字に交わる縦帯が袈裟襷で、上部四区画には乳という小さな突起があり、音響効果を大にするとも言われますが、そもそもは仏の頭髪螺髪を表わし、つまるところ鐘は仏が座する御姿そのものであり、したがって鐘の下に入り手を触れたり、御本堂御本尊様へお参りなしにチョイと撞くでは無礼でしょう。人それぞれ、その時々の望みや願いを持って御本尊にお参りをして、それでもなおかつ、お参りできた喜びと感謝の念を入れての締めに撞く鐘は良い音色で広がります。拝島大師の鐘は総欅、一尺五寸(四五㌢ほど)六本柱の鐘堂に下げ、直径四尺三寸(一・三〇㍍ほど)、重さ八〇八貫(約三トン)。まず手を合わせ拝んでから両手で紐を持ち、一二回軽く振り、静かに撞木を鐘に当て、当てたらしっかり紐を止める。ゴォ-ンという響きが池の水面の波紋が拡がるように余韻を残し、撞いた人の願いが御大師様に届いて行ってるのですから紐を放さずいて、余韻が終われば再び合掌します。一回におよそ二分半かかりますので、後で待つ人のために、家族、知り合い同志で一緒に綱を持ち心を込めて撞きましょう。
◆鐘は願いを込めて撞くのですが、作法通りに撞いた響きはしっかりしていながら穏やかで、その何とも良いひびきが聴く人を良い気持ち、他への優しい気持ち、思いやりの念を生ぜしめ、自分の利益が他者の利益になるわけで鐘つきが仏教の真骨頂ともなるゆえんです。
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