慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その7-

承和五年(唐文宗の開成三年、八三八年)の八月七日、書信を馳せ、開元寺の三綱①に諮問し、兼ねて土物を贈った。還信(画像描画申請受領書)にその礼状が附き報告されている。


八日、聞いた話しに、遣唐使第四船は泥上に在り、いまだ泊所に至らない。日本の国信物②は到着せず、船の荷物を載せた広い棚は離脱し、淦水(泥水)が満杯近く、潮流の浮沈のまま、船はもはや渡海の器ではない。求法僧らは未だ陸地に到着していない。真言請益僧③円行、同、常暁らが乗る。船頭判官は陸に登り、白水郎舎に居た。船中の人の五人が身が腫れて死んだ。大唐の迎船十隻ばかりが来た。一日に一度、国信物を運んだ。波は高い山のごとく、風が吹いて運搬ができない。辛苦が激しい。また聞くところでは、昨日、揚州知州(揚州知事)は迎船を派遣する命令を出し、その手続きは終了していると。詳細は不明である。
九日巳の時(午前十時)、節度使李徳裕は開元寺に牒文を出し、円仁の画像描画申請を許可した。未時(午後二時)、勾当日本国使④の王友真が宿舎の官店に来て、僧らを慰問し、兼ねて早く台州に向かうという状を出すことを相談して帰却した。そこで請益僧の円仁らは土物(日本物産)を勾当日本国使に贈った。その時、商人王客が来た。筆書して天台山国清寺の消息を問うたが、憂鬱な顔になったので、小刀を与えた。小刀は便利な贈り物であった。これも貢ぎ物ではない。

【語句説明】
①三綱・・・三綱は一般には律師・僧都・僧正で一般仏僧を管理する官吏的役僧をいい、唐では任期制であった。
②日本の国信物・・・日本からの遣唐使は唐帝国への朝貢使節ではないので、貢物と言わず国信物と言った。なお、日本国と使うのも日本国は外交礼制度上、唐帝国と対等な国だという意味である。
③真言請益僧・・・入唐して真言宗密教を専門に修得して帰国することが義務付けられた僧侶。円仁は天台宗教学専門である。
④勾当日本国使・・・日本国遣唐使担当官。王友真の官僚経歴の詳細は不明。

【研究】本節の記事から唐の対外外交都市揚州に遣唐使や請益・留学の両僧らが到着した時の入国管理行政機関の諸手続きが理解される。なお、揚州は奈良時代に日本に正式な大乗戒律の伝法方法を伝えた鑑真和上の居住した土地である。円仁らはそれをよく知り、唐側の開元寺僧や節度使李徳裕も鑑真を知っていて親しい態度を取ったのだろう。また、本節の承和五年(唐文宗の開成三年、八三八年)の八月七日から九日の記事から遣唐使という奈良平安時代に日本から中国に派遣された外交使節の性格がよく分かる。遣唐使は日本から中国、唐帝国に派遣された朝貢使節ではありません。当時の日本は中華を標榜して大唐帝国と対等に張り合う大日本帝国であったと言うのです。

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