漢字講座・第37 南(なん・みなみ)

現在、コロナウィルスによる新型肺炎大流行の拡大を抑えるために世界中で東西南北の人の移動が制限されています。逆に流行伝播は方角があるので自分の位置から方角を正しく考えることが大事になります。そこで方位を意味する東西南北の漢字を考えることにします。まず、今回は前回の東の次で南です。南という漢字は草木の繁茂する様を現わします。草木が繁茂する季節、夏草繁るの詞もあるように夏には草木が繁茂します。でも夏の暑い日差しから涼しさをくれるのも繁茂した樹木です。ただ、南という漢字は上に十が載り、十が部首であることは分かりますが、あとの部分の意味はよく分かりません。ともかく中国は南北の関係が重要です。漢字を発明した古代中国人は中国の北部の人です。そこは黄河が流れ、南方の長江と対します。気候も北部中国は降雨量が少なく、作物は粟、大小の麦、それに豆類など、南方は稲米です。稲という漢字は禾偏ですが、禾だけでも稲を意味します。稲や禾の漢字がそれを栽培しない北部中国で作られたことは、流通によって南から北へ運ばれたことを示します。さらに驚くべきことは、漢字が発明された殷の遺跡から通貨に使った子安貝が発見されますが、その貝は南の海の産物で、鹿児島県南の種子島、屋久島辺りから縄文時代の日本人が中国へ持っていったものです。この貝の流通を日本の考古学者は貝の道と呼びます。奈良の正倉院宝物に螺鈿の美麗な銅鏡がありますが、この貝も日本南海の産物です。十五、六世紀の中国明王朝に、沖縄の琉球王朝が使節を派遣していますが、三千、五千という数の大型の貝を献上しています。中国の南北は物流の関係です。これはまた後の機会に説明します。
日本で南北の関係と言えば、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇の南朝と足利尊氏の北朝が五十年以上対立した南北朝時代があります。でも中国では四世紀から六世紀に至る二百年以上の南北朝が本家です。もうひとつ南都北嶺という言葉があります。南は奈良の東大寺・興福寺と北の比叡山延暦寺です。南は特に藤原氏創建の興福寺が春日大社の御神木榊を御輿に担いで京都に押しかけ、北嶺は比叡山王の神輿を担いで比叡山から京都に下り、裹頭という覆面をした僧兵が朝廷御所に強訴したことが『平家物語』などに詳しく書かれていますが、その始まりは慈恵大師第十八世天台座主良源の時代とされ、大師はその禁制に努力しています。
ところで日本語の「みなみ」とは何でしょう。「なみ」は南かもしれません。それに御または美がついた、「御南」「美南」かもしれません。ちなみに「みんなみ」は「みなみ」の擬音化とされます。南はもしかしらたよい処、理想郷かも知れません。仏教を始めた古代インド人は北部インド、ヒマラヤ南麓の人びとでした。ヒマラヤを須弥山、その南方に人間世界が拡がり、そこを閻浮提エンブダイ、また南瞻部洲ナンセンブシュウと呼びます。ここにも南が入っています。密教では宇宙根源の仏陀である大日如来が南天鉄塔で金剛薩埵に伝法し、金剛薩埵は同所で龍猛に伝えたとします。龍猛は顕教大乗仏教でいう龍樹菩薩のことです。密教寺院は本堂南部に高い五重塔、三重塔を造り、大日如来を祀って密教伝法の場にしました。お蔭様で拝島大師も由緒ある五重塔が本堂南に完成しました。これに何としても新型肺炎の疫病神コロナ撲滅を祈ります。お大師さまのますますの活躍を期待します。南無大師常住金剛尊。