慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その6-

承和五年(八三八)七月二十八日、斎①の後、小船を雇い、霊居寺②に向い、途中障りが有り、寺中に入れない。引返し官店③に到る。間もなく、開元寺④の僧である全操ら九箇の僧が来り、旅の疲れを慰問した。

七月三十日、開元寺の僧貞順が慰問す。筆書⑤にて府⑥の寺名并びに僧名を問知し、兼ねて土物⑦を贈る。

八月一日、早朝、大使⑧は州衙⑨に到りて、揚府都督の李相公、すなわち揚州大都督府長官の李徳裕⑩に面会した。挨拶の事終わって帰来した。斎の後、請益・留学の両僧侶たちは、牒⑪を使衙(節度使の役所)に出して、台州(天台山)国清寺へ向わんこと、兼ねて水手丁勝小麻呂⑫の仕を給されて、求法に馳仕するに宛てることを請うた。暮れ際、大使の宣に依って海中の誓願の事を果たさんがために、開元寺に向かい、閑院(空いている院房)を看定した。開元寺の三綱の老僧三十有余人が共に慰問に来た。巡礼が終了して、官店の館に帰った。

八月三日、請益僧ら台州に向かわしめるを請うの状について、遣唐使の牒が揚府に達し了った。妙見菩薩・四王像を画造せしめるために、画師を開元寺内へ向かわせた。しかし。制式に由る所があって、外国人が濫りに寺家に入るを許さない。三綱らも件の像を画造せしめない。よって使牒を李相公に達っせしめたが、未だ報牒の返事は無かった。

八月四日、早朝、報牒の返事が有った。遣唐使は土物を李相公に贈った。李相公は受け取らず、還ってこれを返却してきた。また今日より生活料品を宛てがって来た。物ごとに不備がある。斎の後、揚府すなわち李徳裕の役所より覆問書をもって来た。

◇その状に称す、「還学僧円仁・沙弥惟正・惟暁・水手丁雄満、右、請うらくは台州国清寺へ往き、師を尋ね、便ち台州に住り、為復(あるいはまた)、台州より却来して、上都へ赴き去る、と。」
○「留学僧円載・沙弥仁好・伴始満、右、請うらくは台州国清寺へ往き、師を尋ね、便ち台州に住り、為復(あるいはまた)、台州より却来し、上都へ赴き去る、と。」
◇即ち答書に云う、「還学僧円仁、右、請うらくは台州国清寺へ往き、師を尋ね疑を決せん。もし彼の州に師無くんば、更に上都へ赴き、兼ねて諸州を経過せよ。」
○留学問僧円載、「右、請うらくは台州国清寺へ往き、師に随いて学問せん。もし彼の州に全く人と法無くんば、或いは上都に法を覓め、諸州を経過して覓める者を訪れよ。」
◇また得たる使の宣に称す、「画像の事、卜筮を為すに、忌み有り。停止既に了んぬ。明年将に発帰せんとする時を須ちて、奉画供養せる者、仍って戌時を以て、開元寺大門に到り、誓ってその由を祷れ。」

【語句説明】
①斎・・古代インドの言語であるサンスクリット語(梵語)のウポ-サタの漢訳語、元の意味はつつしむこと、一定の日に戒律を守っているか否か相互に検討すること。布薩のこと。ここでは仏事の時の食事をいう。
②霊居寺・・・未詳。
③官店・・・官営の倉庫付きの宿屋。
④開元寺・・・日本の国分寺に当たる寺院。『唐会要』巻四八には、唐睿宗(実質は則天武后時代)天授元年(六九〇)に天下の諸州に各々大雲寺を置き、玄宗開元二十六年(七三八)六月一日、勅して州ごとに開元を以て額と為すとある。ここは揚州開元寺である。
⑤筆書・・・筆談。
⑥府・・・揚州府。各州中、財政的軍事的に重要な州を特に府として重視した。節度使所在の地である。
⑦土物・・・日本から持参の日本特産物である。紙(和紙)や扇など。
⑧大使・・・遣唐使、遣唐大使である。
⑨州衙・・・府衙と書さないところに注意。衙は役所である。
⑩李徳裕・・・李徳裕(七八七-八四九)は唐中期の宰相李吉甫の子。李徳裕また宰相に任じられ、父子宰相と呼ばれた。
⑪牒・・・これは九州大宰府発給公文書で、これにより唐側役所は入国を許可するのが唐代の日中外交事務手続きであった。
⑫丁勝小麻呂・・・丁雄満とも称す。中国語に堪能で通訳の役を果たす。新羅人と言われる。十年に及ぶ円仁の唐滞在をよく助け、特に帰国に当たっての新羅船の調達に力になった。円仁に続く円珍(智証大師)の渡海入唐にも随行している。

【研究】今回の「入唐求法巡礼行記」の記事で唐代後期というより、唐末節度使藩鎮時代、日本からの訪中者が上陸に際し様々な労苦があったことが具体的に分かる。円仁たちは簡単に開元寺に入れない。以下次号