慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その33-

○閏正月二十一日、敬文①またまた来り、筆言にて情を通ず②。以後あい続いて来り語話あり。嵩山院③持念和尚全雅④に就いて、金剛界諸尊儀規⑤など数十巻を借り写す。此の全和尚は現に胎蔵金剛両部曼荼羅を有し、兼ねて作壇法を解せり。
○二月五日、和尚全雅は房裏に来り、如意輪壇⑥を作る。
○二月六日、州官は勅に准じ、禄を給せり。案ずるに観察使⑦の牒にいう、「閏正月二日の勅に准じ、観察使下の上都(長安)に赴かざるもの二百七十人⑧に絹を給す。毎人五疋、一千三百五十疋を計る。貞元二十一年二月六日の勅に准じ、毎人各々絹五疋を給すものなり」と。旧例禄の僧に給するの例有ること無し。今度の禄の時、僧らに与う。ただし、入京留置せしめず。一に判官以下水手以上、毎人各々五疋を賜り、更に多少あることなし。

【語句説明】
①敬文・・・前回に敬文は天台山禅林寺の僧とあった。円仁入唐の時、揚州開元寺に揚州恵照寺の禅林院に住していた。②筆言にて情を通ず・・・この時未だ円仁は華言を習得しておらず、紙に字を書いて対話していた。③嵩山院・・・揚州城内の同軌坊に所在寺院。④持念和尚全雅・・・持念和尚を小野勝年氏は護持観念を持念の意味として、一種の僧侶の職名のように理解しているが、持念和尚は日本天台座主一世義真和尚、二世円澄和尚、別当大師光定和尚、三世内供円仁和尚の和尚ではなく、十五世座主権律師延昌を平等房謚号慈念和尚、さらに十八世慈恵大師良源の弟子の十九世権僧正尋禅を飯室座主謚号慈鎮和尚というように一種の敬称と考えられる。全雅は実は弘法大師空海が長安青龍寺で師事した恵果阿闍梨の孫弟子に当たる。⑤金剛界諸尊儀規・・・円仁帰国後、入唐求益の成果報告ともいうべき太政官符の「応修灌頂等」には円仁は全雅から金剛界大法・経律疏等一百九十八巻、並びに胎蔵金剛両部大曼荼羅及び諸尊壇様・高僧真影及び舎利等二十一種を受けたとある。⑥如意輪壇・・・慈覚大師円仁の法孫である元三慈恵大師良源の御本地は如意輪観音ということから、元三大師を祀る天台宗では如意輪壇を作り如意輪供を修する。如意輪供は元三大師を本尊とする慈恵供と合一する。⑦観察使・・・唐末藩鎮の職には節度使と観察使がある。揚州らの両淮地方の李徳裕は節度使、天台山のある両浙地方は観察使の支配であった。⑧二百七十人・・・円仁の承和の遣唐使では長安に上京した者は三十五名といい、入京しない二百七十人は上陸地に止まった者であるが、揚州の李徳裕は節度使のみで観察使を兼ねていない。明州(寧波)や越州(紹興)また蘇州などの両浙地方は観察使であるから、帰国準備に明州・越州に移動したと思われる。それらに滞在費として禄が給されるのである。ただ、勅令が実際に機能したか否かは不明で、支給が無いことも考えられる。また入京しない二百七十人が揚州から移動したか否かも不明である。

【研究】
揚州開元寺滞在中、閏正月二十一日、円仁は弘法大師空海が長安青龍寺で師事した恵果阿闍梨の孫弟子の全雅阿闍梨から金剛界諸尊儀規など数十巻を借り写す。全雅和尚は現に胎蔵金剛両部曼荼羅を有し、兼ねて作壇法を解している。ここで円仁は空海真言宗と同等の法系に繫がり、天台宗は真言宗空海と対等に密教受容を受けたのである。ところがさらに、二月五日、和尚全雅は房裏に来り、如意輪壇を作る。以後諸尊曼荼羅修法など真言宗には伝わらない各種修法の伝法を受けている。