慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その39-

○三月四日、朝の斎食後、敬文禅師は揚州に向かって出発しようとした。円仁に語って云う、「揚州に着いたら円載と共に、天台山に行きます。かねて先刻分与された無行和尚の信物①を天台座主にお届します」と。
○三月五日、朝の斎食後、前より画ける胎蔵曼荼羅一鋪五副②を終わらせた。ただし未だ彩色を施していない。また求法の遂げがたきによって唐国滞在の延長を願う書状を遣唐大使相公藤原常嗣に献上した。書状は別に所在する。相公③の返書に云う、「もし留まり住まんことを願うはこれ仏道の為なり、敢えて御意に違いません。住せんとお考えならばすなわち留まれよ。ただし、この国の政治は極めて厳しいので、官憲が知聞したら違勅の罪として擾悩④が有るかもしれない。よくよくお考えのほどを」とあった。
○三月十七日、遣唐大使随身物を運んで第二船⑤に載せ、長峯高名判官と同船し、その九隻の船は官人を分配して各隻の船頭とさせた。日本国の水手を押領させたほか、新羅人の海路にそらんずるもの六〇余人を雇った。船ごとに七、あるいは六、あるいは五人なり。また新羅語通訳の金正南を留める方便を画策したがいまだ成果は得られなかった。

【語句説明】①信物・・・今日でも信書の言葉がある。特定の人が特定の人に意思などを通ずる手紙、信書の秘密という言葉もある。平安時代初期の九世紀まででは、遣唐使は国信物という日本天皇が唐国皇帝におくる品物があった。それは朝貢物品ではない。天台比叡山座主も中国天台山座主に信物を贈答した。②胎蔵曼荼羅一鋪五副・・・揚州で完成しなかった胎蔵界曼荼羅を楚州(江蘇省淮安市)で完成させた。唐側は全雅が同行して指導した。円仁『入唐求法目録』の「大毘盧遮那大悲胎蔵大曼荼羅一鋪五副」に当たる。③相公・・・遣唐大使は参議に準じたが、唐制では平章事に当たり、相公といったのである。④擾悩・・・擾乱の悩み。擾乱は騒ぎである。⑤第二船・・・遣唐大使が日本への帰国のために雇った新羅船と乗員。

【研究】
唐の開成四年(839)三月四日以降の記事。 三月四日、朝の斎食後、敬文禅師は揚州に向かって出発し天台山に行くというので信物を天台座主に届けさせた。三月五日、朝の斎食後、胎蔵曼荼羅一鋪五副を完成させたが、彩色を施していない。また求法目的の未遂のため唐滞在の延長を遣唐大使に書状を送ったところ、返書に「仏道の為に滞在を認めるが唐側の政治は厳しいので、よく気をつけよと注意された。三月十七日、遣唐大使は帰国船の準備、新羅船を使う。新羅人の海路にそらんずるもの六〇余人を雇う。船ごとに七、あるいは六、あるいは五人なり。また新羅語通訳の金正南を円仁に留める方策を講じたが、成果は得られなかった。日中韓の関係は千年前も厳しかったのである。