釈迦如来、お釈迦さまの話-その24-

施無畏・与願の印 お釈迦さまの信仰は仏教の基本ですが、その仏像としてまず注目すべきはその結ぶ印の形と意味です。左手を下に向け、親指、人差し指、中指を真っ直ぐ立てて下に向け、薬指と小指を丸めます、説法を聞く衆生に畏れなくてよいというジェスチャーで、施無畏の印と呼びます。或る面では釈尊の説法の根本とも言えるのです。
お釈迦様の説法を聞きにきた人びと、衆生にとってお釈迦様は悟りを開いた人で、通常の人ではないから、その言われることは人びとの毎日の生活振りに自堕落な反省すべき点が多々あるもので、それをお釈迦様がお説教し、糾弾すると言った怖い、畏れるべき事を指摘されるのではないかとビクビクしています。それをお釈迦様は施無畏の印を示して「こわがら無くてよい」、「ビクビクする必要はない」、「ひたすら為になる話をします」と言って説法するのです。日本仏教では平安時代の慈恵大師良源の時代ごろより本覚思想という考え方が起こりました。衆生に本来そなわっている清浄な悟りの智慧、これを本覚と呼び、自覚的な生活をすることが重視されました。ただ、現実をすべて本覚の現れとし、それをすべて肯定するのではありません。お釈迦様が人びとに教えるのは八聖道により正しく考え、正しく見るなどなど、人びとの悩みを考え、その解決方法を見つけるそのための最大の努力、精進する人生です。それをお釈迦さまは教えるのです。
さて、つぎに右手掌は与願の印です。手の平を前に向けただけです。与願とは何でしょう。人びとの願に与みする、それに対応して判断する。実はそこが難しい。お釈迦さまが願に答えてくれるというのではありません。それはは否、だめだということも有るでしょう。
ところで施無畏は観世音菩薩の別名ともされます。阿弥陀如来に代わって極楽浄土の往生を願う衆生を迎えに来て、衆生の枕元に蓮台を置き、これに乗りなさい。こわがら無くてよいですよというのです。仏像の形はなかなか奥が深いのです。いずれにしてもお釈迦様の説法は他の仏・菩薩・明王、諸天、権者、総動員して人びとの種々の願いに応えようと考え、その悩みに解答を与えようというのです。今回も日本・世界の人びとの悩みの種である新型肺炎を起こすコロナウィルスを撲滅する方法を教えて下さい、正しい対処の仕方を教授下さいということです。