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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その17-

○十月二十四日、人を雇って、受戒して出家となった惟正らの坐具2箇を作らせた。当開元寺の僧貞順またこの人を雇うことに責任をもってくれた。坐具一条の料金は、絁(つむぎ)二丈一尺①である。表は八尺四寸、裏八尺四寸、縁料四尺二寸。二つの坐具の料は、すべて計四丈二尺となり、作り手の功(手間賃)は一つを作るに二百五十文を用いる。二つで五百文である。

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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その16-

○十月二十三日、沈弁①来りて云う、「彗星の出るは、すなわち国家大いに衰え、兵乱に及ぶ。東海の主鯤鯨の二魚視するは、占うに大怪となし、血流して津②を成す。これ兵あらたまり衆起こり、天下を征すなり。揚州にあらざればまさに上都なるべし。さきに元和九年③三月二十三日夜、彗星東方に出づるに、其の十月に到り、宰相の反に応じ、王相公以上の討殺あり。宰相(王涯)および大官らはすべて二十人、乱殺せられしものは計るに万人以上なり」と。僧らは事いまだ定かならずといえども後のためにこれを記す。夜に入り曉に至るに、房を出で、この彗星を見た。東南隅に在り、その尾は西を指す。光は極めて分明にして、遠くにしてこれを望めり。光の長さは合わして十丈(30メ-トル)以上有り、諸人みな云う、「これ兵剣の光なるのみ」と。

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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その15-

○十月十九日、惟正・惟皎を受戒①せしめんがために、判官録事に牒報す。大唐文宗大和二年(828)②以来、諸州多く密かに受戒を与うるがために、官符を諸州に下し、百姓が剃髪して僧となるを許さず、ただ五臺山に戒壇一処③、洛陽終山に瑠璃壇一処④のみ有り、この二よりほかは皆悉く禁断せり。これに因り、所由(所管庁)に報じて処分を取ることを請うなり。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その13-

○十月三日、晩がた請益・留学の両僧は、平橋館①に往く。大使・判官らの入京のために別(わかれ)を作した。長判官、すなわち長岑高名判官にあい諮って云うに、「両僧の情願の状を得て、将に京都(長安)に到って、聞奏し、早く符を得せしむる者なり」と。符とは円仁らが天台山に旅行する許可である。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その11-

○承和五年・唐開成三年(八三八)九月一日、異事無し。開元寺の西より河①を渉れば、無量義寺②が有る。老僧が有り、名は文襲、春秋七十、新たに維摩経記五巻を作る。今、老僧は堂裏でその疏記を講じている。多く僧肇・道生・道融、及び天台大師智顗禅師らの義記を用いている。近寺の諸僧が集まって来てこれを聴聞する。聴衆はすべて三十八人、文襲和尚を敬って尊重している。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その10-

○承和五年・唐開成三年(八三八)八月二十六日、李相公(節度使李徳裕)配下の遊撃将軍沈弁が来て諮問した。沈弁は使者に蜂蜜一瓶①を送らせてきた。請益法師、すなわち円仁は開元寺僧百人を供養、すなわち食事を提供することになった。寺の僧の数は一百僧、そこで円仁ら求法僧は沙金二両を設供料として出し、留学僧もまた二両を出し、総計して金小四両②を寺の役所に送った。綱維・監寺という寺の役職が集まって算定すると大一両二分半という。ただちに開元寺に報告し、須く金数を具し、さらに節度使の役所に報じて主決済処分して空飯を準備することになった。その公文書は次である。

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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その9-

八月二十五日、早朝、綱維の請いが有り、そこで開元寺の庫裡に行って粥を喫した。朝粥を食した①のである。午の時(正午十二時)に至るころ、三論留学僧常暁師②が慰問に来て談話した。開元寺側が食事の供物を提供してくれたので、円仁らは常暁師と斎食した。常暁師は巡回して宿舎の館に帰った。

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