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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その21-

○十一月十九日、廿四日の天台大師忌日の設斎①に宛てるがため、絹四疋・綾三疋を以て寺家に送れと言われ、留学僧が絹二疋、円仁ら請益僧が綾三疋、絹三疋である。なぜか合計すると絹一疋が増した。書状をそえて寺家に送らせた。その状は別紙にある。金額で銭六貫余銭である。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その20-

○十一月十六日、書状の啓を作り、相公李徳裕に提出し相公が開元寺に来て慰問してくれたことに感謝の気持を伝え、兼ねて少々の物を贈呈しました。水精(水晶)の念珠二串、銀装の刀子六柄、斑竹の筆二十管、螺子(法螺ホラ貝)①三口、別に贈状を作り、あい同じく函(ふみばこ)にうちに入れ、それらは相公の随軍②沈弁太夫にもたせ交付させました。

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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その17-

○十月二十四日、人を雇って、受戒して出家となった惟正らの坐具2箇を作らせた。当開元寺の僧貞順またこの人を雇うことに責任をもってくれた。坐具一条の料金は、絁(つむぎ)二丈一尺①である。表は八尺四寸、裏八尺四寸、縁料四尺二寸。二つの坐具の料は、すべて計四丈二尺となり、作り手の功(手間賃)は一つを作るに二百五十文を用いる。二つで五百文である。

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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その16-

○十月二十三日、沈弁①来りて云う、「彗星の出るは、すなわち国家大いに衰え、兵乱に及ぶ。東海の主鯤鯨の二魚視するは、占うに大怪となし、血流して津②を成す。これ兵あらたまり衆起こり、天下を征すなり。揚州にあらざればまさに上都なるべし。さきに元和九年③三月二十三日夜、彗星東方に出づるに、其の十月に到り、宰相の反に応じ、王相公以上の討殺あり。宰相(王涯)および大官らはすべて二十人、乱殺せられしものは計るに万人以上なり」と。僧らは事いまだ定かならずといえども後のためにこれを記す。夜に入り曉に至るに、房を出で、この彗星を見た。東南隅に在り、その尾は西を指す。光は極めて分明にして、遠くにしてこれを望めり。光の長さは合わして十丈(30メ-トル)以上有り、諸人みな云う、「これ兵剣の光なるのみ」と。

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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その15-

○十月十九日、惟正・惟皎を受戒①せしめんがために、判官録事に牒報す。大唐文宗大和二年(828)②以来、諸州多く密かに受戒を与うるがために、官符を諸州に下し、百姓が剃髪して僧となるを許さず、ただ五臺山に戒壇一処③、洛陽終山に瑠璃壇一処④のみ有り、この二よりほかは皆悉く禁断せり。これに因り、所由(所管庁)に報じて処分を取ることを請うなり。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その13-

○十月三日、晩がた請益・留学の両僧は、平橋館①に往く。大使・判官らの入京のために別(わかれ)を作した。長判官、すなわち長岑高名判官にあい諮って云うに、「両僧の情願の状を得て、将に京都(長安)に到って、聞奏し、早く符を得せしむる者なり」と。符とは円仁らが天台山に旅行する許可である。
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