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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その32-

○開成四年閏正月五日、雨ふる。夜に入り雷鳴あり。電光浩雨は夏月の雷雨に似たり。自後、望(十五日)に至りて始めて晴れぬ。相公李徳裕が開元寺瑞像閣を修理のため、講を設けて募縁①す。正月一日より始め今月八日に至りて講おわる。銭五百貫をもって木を買い、曳いて寺の庭に置く。かつ勾当②はこれを整え削りせしむ。本国朝貢第一舶使下③の水手・射手六十余人、皆病に臥して辛苦せり。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その31-

○正月二十日、暮れ際、僧正①が来て、あい看て慰情(慰問)した。
○正月二十一日、斎の後、遣唐大使等の去年十二月六日の書が将来された。案ずるにその書状にいう、「十二月三日平善(平安)に上都②に到り、東京③礼賓院に安置せられた」と。その状は別のごとし。長判官の傔従(従者)村清が同月同日の状にいう、「今月三日辰の時(午前8時)、長楽駅④に到り、勅使迎え来り、詔問を伝え陳べ、遣唐大使は礼賓院に到り、兼ねて朝拝畢るものなり」と。ほぼ事由を知る。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その30-

○正月十八日、暁に薬粥①を供養し、斎時にはすなわち飯食を供した。百種、味を尽くす。視聴の男女、昼夜を論ぜず、会集多数なり。兼ねて堂頭②において、斎(食)を設け僧に供せり。夜に入り、さらに灯を点じて供養し、兼ねて梵讃③を以てす。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その29-

○開成四年正月十七日、沈弁①が来て、遅発のことに助憂した②。そこで円仁は質問した。「殊(こと)に相公の牒③を蒙り、台州に往く④ことを得るや否や」と。沈弁書もて答え⑤て云う、「弁、相公に諮問すること、前後三、四度なり。諮もて説くに、本国⑥和尚の台州に往くに、一文牒を擬して、得るや否やを審らかにせざらんや」と。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その27-

○開成四年正月六日、相公節度使李徳裕の随軍沈弁が来たりていう、「相公の伝語では、今月初五日より、國のためならびに銭を得て、開元寺栴檀瑞像閣を修せんがために孝感寺に寄りて講経し募縁せしめんとす。乞うらくは本国(日本国)の和尚よ特に到り聴講し、兼ねて日本国の諸官らをして結縁し捨銭を催すものなり」と。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その25-

○十二月九日、本国判官藤原朝臣貞敏は開元寺において斎を設け、銭五貫六百銭を出して新に画ける阿弥陀仏・妙見菩薩・四天王像ならびに六十余人の衆僧に食を作し、供養せしめた。またこの日をもって、龍興寺法花院の壁に南岳・天台両大師像を写①させた。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その23-

○十一月二十九日、天晴れ、揚州四十余寺有り。なかんずく、過海して来る鑑真和上①の本住せる龍興寺は、和上の影像が現在す。法進僧都②の本住は白塔寺なり。臣善③なるものこの白塔寺にありて「文選」を撰す。恵雲法師④もまたこれ白塔寺の僧なり。
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