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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その44-

○四月五日(続) 新羅人の多く住む宿城村①に到った。僧らが密州より当地に到った理由を問うたので、答えて言う、「新羅僧の慶元・恵溢・教恵らは便船に乗って来たりてここに到った。一両日宿住しようと思う。請うらくは、勾当し愍れみを垂れてここに留めてください」と。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その43-

○四月三日、第一船が昨夜処分した状に、長岑判官ら五船の船頭をして署名せしめた。第二船は史生の名を署名させた。余の四船は署名に連ならなかった。新羅人通訳金正南の書を得たが、それに称す「第二、三、五、七、九らの船①はここより東海を渡らんとす。よろしく移りて、第六、八船に乗るべし」と。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その42-

○三月二十九日、平明①に(午前四時ころ)、九隻の船は帆を懸けて発ち行き、卯(午前六時ころ)の後、淮河河口より出て海口に至り、北を指して直行した。客を送る軍将②は波高きに縁り、相随うことをしなかった。水手の稻益は便船に駕して海州に向け去った。東と南の両方角を望見すると、大海は黒く幽遠である。始めは西北より、山と島が相連なり、即ちこれは海州管内の東の極である。申の時(午後四時ころ)、海州管内東海県の東海山③の東辺に到り、澳(みなと)に入り停泊する。澳より東方近くに胡洪島がある。南風しきりに吹き、揺り動くこと比類がない。その東海山は本当に高石重巌、海に向かって険峻、松樹は麗美、はなはだ愛怜である。愛怜は珍重愛すべきであるの意味。山頭より陸路にて東海県に到る距離は百里である。一里500メートルとして5万メートル、50キロメートルである。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その41-

○三月二十五日、卯の時(午前六時ころ)、出発。風は正西より吹く。淮河の流れに乗って東行した。未の時(午後二時ころ)、徐州①の管内の漣水県②の南に到り、淮河中に停留した。風色は変らざれども、第一船③の新羅水手及び梢工④ら船を下りて未だ来らざるによりて諸船はこれが為に拘留し、進発を得ず。夜を通じて、信風⑤変らず。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その37-

○二月二十七日、留学僧は揚州に向くために随身物を安排(整理)した。朝の斎食後、日本国大使は留学僧に東絁①三十五疋・帖綿十畳・長綿六十五屯②・砂金二十五両大両③を賜り、学問料に宛てしめた。朝貢使は勾当王友真に酒を賜り飲ませ、別れを惜しんだ。 続きを読む

慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その36-

○二月二十五日、真言請益僧円行法師①に相見えた。法師が語っていうには、「遣唐大使は京にあって再三、自分の請益のため寺裏に住せることを願い上奏したが許可されなかった。後にまた上奏したが僅かに青竜寺②に住することだけが許された。義真座主③の所において、十五日に胎蔵法を受け④、百僧に供養⑤したのだが金剛界法を受けなかった」と。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その35-

○二月二十一日、早朝、発ちてゆく。遣唐使従者粟田家継は先日、物を買うために船を下りて市に往く。所由すなわち係の役人が捉縛して州役所に抑留されたが、今日釈放されてここに来た。同じく第四舶の射手も免ぜられて到着した。江陽県の廻船堰に到って夜宿した。
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